ちょっぴりゼツメツ寸前の詩をめぐる冒険◆詩をへだてるベルリンの壁
田中修子

プロローグ



詩っぽいものを書きはじめて二年、あたらしい世界をみつけてわくわくしている人間のおぼえがきです。

とおもって書き上げたら、「ただの身内の交友日記じゃないか」と自分にツッコミをいれてしまいました。いえ、そうなのです。いまや現代詩人は絶滅危惧種ぜつめつきぐしゅになってしまいそうな趣があります。いや、もしかしたら詩人とは昔からそういう存在だったのかもしれません。過去のひとがやたらかがやいているように見えるだけで、どの時代も息も絶え絶えに「詩を……詩を残そう」というひとがなんとかぜーぜーしながら守り抜いてきた詩なのかもしれません。

今回は、そんな詩の内側について、本来小説書きをこころざしていた私だからこそ見える現状とか、そういうものを、オモチロオカチク書いていこうと思います。だいたい詩というのにいちばん足りていない要素は笑いであります。
お名前の出ている方はご本人に許可を頂いております。

◆壁

さて、やっと本題に入ろうとしています。
「詩をへだてるベルリンの壁」このネタがすぐはいってくる人はどれくらいあるでしょうか。
ベルリンの壁というのは1989年まであったドイツを分断していた壁のことです。あれこれ述べれば大変難しい問題がありますが、「そういった問題意識を持った人にはたいへん深刻だが、関係ないと思う人にはたいへんどうでもいい」というところが「現代詩を書いている人には深刻だが、現代詩など関係ないという人にはどうでもいい」あたりが、なんとなく現代詩に似ている気もします。

つまり、当事者やそれについて問題意識をもった人は目の色をかえて論争する。歴史の話を持ち出す。遡って第二次世界大戦第一次世界大戦、ソ連とアメリカのなりたち、果ては人類生誕についてまでテツガク的にギロンすることとなる。

そうして、それにうまく入っていけない普通の人が、「すーっ」という感じでいなくなる、そういったことが現代詩で起こっているのではないかしら、と近ごろ思うのです。

◆よんほんの壁

さて、ごくごく最近知ったのですが、私はどうも

■テキストが強い

詩を書く人に分類されるらしいのです。
さいしょ、
「なんじゃ?」
という気分でありました。
テキストが強いとはなんだ? おそらく「書き言葉系」ということで間違いないようです。私にとって、詩とは書き言葉であることは当たり前のことだったのですが、どうも、そうではないらしいことが分かりました。

そう、
■テキストが強い=書き言葉系のみを想定した詩
■ポエトリー・リーディング
■朗読
■即興詩
というジャンルが、「現代詩」のジャンルにあるようです。

以下、この四つを巡る私のこころの冒険を。

□朗読については、「ある人がこころをこめて書いた詩を、こころを込めて朗読すると、その人の詩句と友達になれる」という現象があることを、詩について教えてもらった中学の朗読の授業で知りました。
たとえ死んでしまった詩人の詩句でも、より、こころにとどまるのです。
その、朗読の選択授業には、「ダサくて内向的」なひとしかおらず、私はそのなかでいちばん、そうだったと思う。
宮沢賢治の「よだかの星」の描写部分を朗読し、よだかと友達になったような気がしたものです。
また、朗読しやすい詩とは、書き言葉が優れている詩であるということも、なんとなく感じるこの頃です。


□ところで、ポエトリー・リーィングのことを、私はものすごいヘンケンの目で見ていました。Youtubeにもアップされているようですが、絶対に観ない、観るのならリアルで、と決めていました。
なぜならば、まず、カタカナの「ポエトリー・リーデイング」というのが胡散臭いではないか。
詩は日本語であるべきである。せめて朗読であってほしい。
英語では"poetry reading"と書くのだろうか、それにしたって「ポエトリー・リーディング」とカタカナ英語にするなんていっそのこと許せない、という色眼鏡でした。

ところが、実際に、ネット詩出身の方が朗読会をひらかれて、タムラアスカさんというポエトリー・リーディング出身の方とお会いし、彼女のリーディングを伺って、私の偏見はガラガラと音を立てて崩れていきました。

小柄な体から繰り出される、ふしぎな言葉のリズム。
感情の昂るとき、すこし揺れるこぶし。
ファッション。
儚い、うつりゆく都市の情景。都市のなかで繰り広げられている、刹那の出会いや別れ。
そういったものが、彼女のからだから、もあもあ湧いて、私のなかに入ってくるようでした。

彼女の詩は、とても儚いものかもしれない。
ご本人もコンプレックスにされていたようですけれど、もし彼女を知らず、テキストだけで読むとすこし意味が通らないかもしれないところがあります。
彼女のすべてがこもってこそ、こころにひびく詩として成立するもので、かつ、舞台の雰囲気に左右されるのかもしれない。
よほどいい録音や映像でなければ、再現することもできないだろう。

しかし、だからこそ、とても愛しいな、と感じるのです。

□即興詩については、これはまったく、はじめてでした。
なんと、この世には、お題を出されてその場で即興でそらんじる詩というものがあるらしい。
それは、中世ヨーロッパにいたという、吟遊詩人がやるもんじゃないか?
日本におるんか?
という感じでした。

ところで、ツイキャスというものがあります。インターネットを利用した個人のラジオですが、三人まで会話することができます。
そこで、文学極道という詩サイト(スルースキルや、かなりの遊び心がためされる)が、「文極ツイキャス」というこれは司会のかたの采配がしっかりしているので安心できる番組を開催されていて、それを聴いたり、一回参加してみて、これもなかなかオモチロイものであるな、という感じがしました。

お題を出されて、その場で詩っぽいものをそらんじてみる。
本人の声質・喋り方の癖が生きてくる。
上手な方は、「豆乳」というお題で「豆乳がたくさん売られている町を歩いている」という設定で即興をされ、町の光景や、湯葉の浮いた豆乳の味が口のなかにありありと浮かんで、唾が出てくるようでした。

また別の機会に、黒崎水華さんという、恐らく普段はすこし耽美な世界観のあるテキスト系の作品を作られるかたのツイキャスに遊びに行って、「お題をどうぞ」ということなので、思ったものを出したら、彼女の世界観で即興詩を作ってくださいました。

私の出した単語が、彼女の詩のなかに生きている。

そうか、即興詩とは、「死んでいる詩」ではなく、双方向の「生きている詩」であるか、と。

◆◆◆

そうしてこの四つのジャンルは、人によってまたがって存在している。
私は、■テキストが強い=書き言葉系のみを想定した詩 ■朗読 向けの作品がやはり分かりやすい。
けれど、その他のジャンルの人にも、尊敬する人がいる。

そういった感動を記録すべく、この雑記を残します。

また
■テキストが強い=書き言葉系のみを想定した詩 のなかにも、さまざまなジャンルがあるようですので、いずれ続きを書くかもしれません。


散文(批評随筆小説等) ちょっぴりゼツメツ寸前の詩をめぐる冒険◆詩をへだてるベルリンの壁 Copyright 田中修子 2018-07-16 16:30:31縦
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