終末
本田憲嵩

     ※

死の匂う、音を聞く。だいぶ疲れているのだろうか。考える人のようにソファーに座り込んで、夕方に近い、昼下がりのつよい陽射しに少しうつむく。それは沈んでいる、僕の罪悪そのもの。不意に、朽ちた老木が倒れ込む寸前のような、あるいはそれは、一家の没落への道に吹き付ける、ひとひらの風として、そのまま直結しているかのような、父の深いため息。

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(この古ぼけた駅はまるでオレそのものだ。かつてこの市(まち)の炭鉱から採れた石炭は、もはやとっくの昔に時代遅れのものとなり、それさえも底を尽きてしまった。目の前にひろがる北の大通りの店さきどもは、生ぐさい潮風で錆びついたシャッターを常に降ろしてしまっている。オレは半ばゴーストタウンとなった市(まち)の駅そのものだ。視えもしないものを描きたがった結果がついにこれなのだ。オレはかつての昭和の栄光をとどめたまま朽ちて風化した残骸だ。そしてもはやそれ以下の存在だ。なぜならば本当はそんな栄光すらも何ひとつとして有りなどはしないのだから。ただただ日に日に老いて朽ち果ててゆくばかり。あの幣舞の橋から見える、あかい夕映えは世界でも三番目ぐらいの美しさだ。オレはもはや――)。

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この夕暮れ時に、ひとときの、安堵とさびしさ、とのあいだで、時のながれを 溯る、瞳の中を 泳ぐ、俎板のうえ かなしい、小魚たち、台所に立つ 萎んだ、母の背中、そのように、拙く、頼りない 水道水は、かぼそく、揺らめいて、ガスコンロの火、さえも、寂しげに、揺らめいて。 小さな、四角い、窓からは、まだ、葉をつけていない、冬の裸の老木、木は、たとえ倒れても、春 に、なれば、また、葉を、茂らせることが、できるのだと、また 生きてゆくことが、できる のだと。あるいは、西の窓 から滲む、紅のまぶしさと、温かさ、そのように、包みこむ ことが、
もしも もしも、できる のなら、
このような、やさしい、夕暮れ 時に、
もしも できる、のなら、

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週末、太陽とともに、最後の炎を夕空に燃やしている、夕刻を告げる、モノラルのスピーカーの懐かしいフレーズ、祇園精舎の鐘の音のような近所のお寺の鐘の音、そして電線に集結しているカラスたちの焔のようにけたたましく赤い鳴き声、それらの音が一斉にあべこべに混ざり合う。不協和音で構成されたきわめて短いひとつの曲を奏でる。西窓から射し込んでくる赤い光に照らされている、子供のように老いた母、老木のように老いた父、そして老いの戸口に立たされた僕、三人で丸いちゃぶ台で食卓を囲む。「いただきます」まるで世界の終末の最後の光景、そのもののように。(西窓から外界は、落ちてきた太陽によって、真っ赤に燃えている、燃えている、)。



自由詩 終末 Copyright 本田憲嵩 2018-06-17 20:07:26
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