草の歌 Ⅶ
flygande



くさきりはら橋、火に包まれる。燃え上がるぶな、椎、樫の森、火事のさなかにも岩魚は泳ぎ、水の中でなお炎上する。腹を見せれば狐に食われ、背中には芥子のくすりが塗られる。大火は山を焼き払い、あとには煤けた骨だけが残った。夜明けは青く、朝の雨、骨の隅々まで染み渡り、細切れになった命は土へと流れて隠される。飢餓の鹿は栗を求めて焼野原をうろうろ歩き、炭となった切り株を踏み砕いては膝を折る。川の水はようやく冷たく、渡された倒木を渡りながら、かえすがえす、この向こうには、霞む目のこの向こうにはと、春を望んで幻視する。新芽は秘匿された命の告白。やがて水辺から野は始まる。

くさきりはら橋、切符を切る。渡行者は四つ足に始まり、二つ足、三つ足、六つ足、七つ足、十四足、百足、百二十八足を数える。足のある者は足で渡る。足のない者は足を借り、足を返すと腹ばいになってまた山へと消える。その体に手を振り彼らは彼らの体と別れる。その心に手を振り彼らは彼らの心と別れる。うろで生まれた子鹿を連れて母鹿が渡りに来るけれど、橋のたもとでくすぶっていた蚯蚓みみずに最後の足を貸してしまう。風は親子を優しく包み、その膝下からまた野を始める。首だけを動かして食む野いちごは口の中で腐っている。

くさきりはら橋、石を積ます。長い雨季の終わり、地獄の入り口は涼しい河原。閻魔は夕餉を摂りながら子供たちにひとつずつ石と食べ物を分け与える。清らかな水を含むから、ひえの重いこうべは深く垂れ、風が立てば穂波はさざめき、農具を担いだ鬼たちを振り返らす。鬼角は額から頬へとやさしく根を張り、悲しげな眼球を抱いている。さて、積み石遊びは子供の領分。鬼たちに手引かれて笑い声。小さな手と手は不揃いな賽を組み上げる。生きていることはほがらかな罰。死んでいることはさびしい許。やがて屈曲しながら彼岸へと向かう、橋梁とは地から始まり地に終わる祈塔。石の隙間から一輪の竜胆りんどう、新しい水の味を確かめている。岩上で休む野猫の片目は潰れ、ときおり白い宇宙がこぼれている。

くさきりはら橋、足音を知らせる。からだを失っても気付かない幽霊医者は患者をさがしていつまでも歩けども、歩けども続くのは青空と道ばかり。魚獲りを辞めた漁村では蜂や花がせわしなく勤めあげ、村人は病を眺めながら濃く熟れた西瓜を吸った。かつて握った患者たちの掌のつめたさあたたかさ。海はきらめき、波がどこかで破砕する。岩に腰掛け、幽霊医者は聴診器を空に宛てる。その存在感は畑に吸われ、森に吸われ、雲に吸われ、やわらかなことは残酷だった。ならば石橋だけが摂理に反し、さびしい幽霊の足跡そくせきを数える。北(kita)、事(koto)、簡(kan)、夙(tsuto)、紺(kon)、菌(kin)、疹(shin)、天(ten)――文字は橋から浮き剥がれ。やがて来る雨は豊かな構文を湛え。

くさきりはら橋、堰に沈む。紫陽花、風に膨らむ蜘蛛の巣、ブロンズの牛、観測者、ことごとく水の底で言葉を失う。水面は鏡となり、真昼の銀河を映し出した。空では映せない鳥が水の影を飛行し、水では映せない魚が空の向こうへ泳いでいく。送電塔のてっぺんに腰掛け、閻魔は遠くの山を見遣る。呼びかけても声はなく、問いかけても応えはなく、断じても抗うことをしないから、みずすましと肩を抱き合い、溶けないバターをいつまでも舐めている。堰内に遺物を捨てた者は五年以下の懲役もしくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。古びた法律は挽歌のように、人を守らず、人を裁かず、人のかたちをただ悼む。切なさに目を瞑れば、天から無数の廃棄物が剥落し、新しい酒瓶、砕かれた位牌、灰色インキのカートリッジ、静かに、あるいは音もなく、飛行船の残骸、発火する電子レンジ、色とりどりの宝石のように降り注いでは、深く沈められるための罰を探して息を吐く。

くさきりはら橋、陰を貸す。借料には利子が付き、かならず花を添えて返さねばならない。橋の下には蝶が休み、蛇が休み、人が休み、機械が休んだ。打ち捨てられた車の空席には医者が座り、橋の裏側を見上げてはすこし眠る。天国は過去を置き去りにし、地獄は過去を慰めた。だから病はもう探さない。骨髄に忍び込んだ小間切れの命が肉を突き破って芽吹くなら、この体からもういちど野を始めたい。小石がひとつ崩れ、乾いた頭骨をこつんと打つ。眉間から一輪の竜胆が咲く。大事なことはみな深い場所に埋められて、忘れられたころ春になる。借金取りは鹿の姿をし、債務者たちを正しく花野へ連れていく。

くさきりはら橋、橋を渡る。やがて村は終わり、橋脚は崩れ、礎石は割られ、土塁は破れ、水は枯れ、鳥達は散会し、あとには空だけが残される。夜、見上げればそこに橋はもう無く、はじめから闇であったもの、いつしか闇となったもの、暗い宇宙に炭酸のように溶けている。ここに佇み、私が夜を見上げている。どこからとなく現れた孤独な蛍が、どこへともなく消えていく。その残照に私は私が私であったことを知る。草切原橋、それはこの風。草切原橋、それはこの夜。体と心を交換し、どこへともなく消えていくための。私の背中を誰かの角が優しく掻く。隠された水脈のありかを伝えたがって。振り返らず、ただ謝辞を述べて私は息を引き取る。朝になれば光を走らせ、緑の塋域えいいきどこまでも拡がっていく。私たちみなこの墓場から生まれた。足を返し、水色の蛇となって新しい野を探しに行く。目を開いたら、その空にまた伸びやかな名前をつける。





自由詩 草の歌 Ⅶ Copyright flygande 2018-06-07 05:02:18
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