二月からのこと
山人

平易な朝と言えばいいのだろうか
ひさびさに雪除け作業もなく道路は凍っている
稜線には水色の空がのぞいている

声を枯らし、鬱陶しい汗が肌着を濡らし
昨日の日雇いはきつかった
だだをこねていた中国人の子供が
にこやかに礼を言ってくれたのが唯一の救いだった

気持ちはいつも
揺らいでは落ち、昇り、また降下していく中で
私は今日、遠出のための準備を終えた

遠方まで出向き、私は私の存在意義のために動こうとしている
この先どんなふうに未来は動くのだろう
豊穣の未来のために
私は利口な農夫になれるのだろうか

新しい種を求めて
私は遠出する

*

まだ夜も明けない朝
また目覚めてしまった
玄関をあけ、階段を降りる
道路には闇にたたずんだ外灯がある
何かが舞っている
羽虫のような生き物
排尿をしながらそれを眺めていると
細かい雪だった
外灯の後ろ側には月があるのに
闇はしずかに
月光とともにそこにあった

裸に冷やされた仕事場の戸を開け
電灯をともし ヒーターを点ける
マグカップに白湯を注ぐ
数回 息を吹きかけて
口の中に湯を回す
無味な湯が口中をころがり
私の芯へと落下していく

もうすぐ夜が明けるだろう
失われた時間が次第に元に戻ってくる
でもまだ三月だ

*

闇の西の空に赤みがかった月が浮いている
未だ目覚めない命の群落は音を立てていない
傍に立つ電柱の静けさとともに
小池にそそぐ水の音が耳から浸透してゆく

夜半に目覚め再び眠りに落ちて
めずらしく夜が明けてから外に出た
やわらかい空気が皮膚に触れる
包まれていると感じる
あらゆるものに理不尽さを感じながらも
四月に抱かれるように
すこしだけ腑に落ちる

新しい物語のために四月はおとずれ
感傷は三月に見送る
夢はまだ終わったわけではないよと
君に言いたい気がする

*

物語のはじまりにも慣れ
風の速さも感じられるころ
あかるみを帯びた月がはじまる
大きく風を飲み込む鯉が
初夏の結実を促すように泳いでいる

命の蓋がひらかれる
スイッチを入れられた生き物たちはうごめきまわり
生をむさぼっている

五月は裸の王様だ
どんな生き物も性器を陳列し
淫靡な香りと誘惑の痴態を広げている

農民は田へ田へと
呪文のようにリピートし
土のにおいにおぼれている

車は疾走し続ける
五月の空気は錬金術師
後方のナンバーには
「五月」と記されているかのように

*

六月の雨音が聞こえる
今は空のうえで
六月の雨が育ち
きっともう
豊かに実りはじめているのだろう

誰もが六月の雨を待っている
やさしく皮膚に染み入り、
あらゆるものを平坦に均し
雨は果実のように地面に注ぐ

やさしさや安らぎは
雨から生まれ
やがて血液の中に混じり込んで
やわらかなあきらめともに
人ができてゆく

*

七月の
少しむっとした空間があった
上空ではまだ
とぐろを巻いた怪物が
大きく交尾をしているという

集落のはずれは
言葉を使い果たした老人のようで
かすかに草は揺れ
どことなく
小さな虫が飛翔していた

他愛もない会話の中で
使い古しの愛想笑いを演じ
私は居場所のない場所に居たのだった

なにもかもが濁っていた
七月の
まだ梅雨空の上空は
肥大した内臓のようで
大きく膨らんでいた

さび止めをし忘れた
私のねじが
コロコロと
助手席の上に
転がっている

*

深い霧がうっすらと見える
まだ明けきれない朝
ニイニイゼミの海が広がり
その上をヒグラシがカナカナカナ、と
万遍なく怠惰が体を支配し
私はその中をぷかりぷかりと泳いでいる

上空には巨大なウミウが舞い
血だるまの現実がホバリングしているが
私の心は心細いマッチ棒のようで
ぶすりぶすりと煙い火をかすかに灯している

私は
またこのように道を失い
いつ来るともしれない
風を待っている

八月はまたやってくる
夏の痛々しく残酷な暑さは
あらゆるものを溶かし崩してゆく

釈然とするものが何一つない真夏の炎
それはすべてを燃え上がらせ
骨も髄も溶かし
念じたものをも溶かしてゆく

*

あらゆる裸を晒し続けた真夏だった
饒舌にまくしたてる命の渦
夏はすべてをあらわにし
やがて鎮火した

隔絶された山岳の一角で
口も利かず
私は一人で作業をしていた
何も無いその佇まいの中で
私は何と戦っていたのだろう
でも確かに戦っていたのだった

少なくとも日没は一時間は早まった
夕暮れ近い山道を登り返す時
うすい靄がオレンジ色に差している

ホシガラスが滑空し叫ぶ
断崖を蹴るように降下し
再び上昇した
いくつか濁った声を出し
私の上を飛んだ

額に灯火されたランプのもとには
蛾や羽虫が擦り寄り
光源に酔っている
ヒキガエルのこどもが
のそりと動く

わたしも彼らも
きっとどこかに帰るのだ
ねぐらへ棲み処へと

ザリッ
スパイク長靴が石とこすれあう音が
九月の夜の山道に
孤独に響いた

*

空が重く垂れさがっている
泣きそうな重い空気が
地面に着陸しそうになっていた
野鳥は口をつむぎ
葉は雨に怯えている
狂騒にまみれたTVの音源だけが
白々しく仕事場にひびく

悪臭を放つ越冬害虫が空を切る
その憎悪にあふれた重い羽音が
気だるく内臓に湿潤するのだ
不快な長い季節の到来を
喜々として表現している

こうして、悪は新しい産卵をし
悪の命を生み続ける
不快な空間はあらゆる場面でも
途切れることがなく存在してゆく

十月はあきらめの序曲
乾いた皮膚をわずかに流れるねばい汗
かすかな望みを打ち消す冷たい風音

風景はさらに固まり続けるだろう
思考は気温と共に鬱屈し乾いてゆく
ひとつふたつと声にならない声を発し
ねじを巻くのだ

*

男に足はなかった
有ったのは、たった一つの脳と心臓だけだ
脳と心臓からやがて手が生え、足が伸び
それらが男に足され、人になる
十一月の肌寒い雨の日
男はのっぺりとした顔をして歩き出す
友もなく、鉛筆の芯のような思いだけで
歩いているのだった
雨降りの山道は
一人姥捨て山への階段のようで
目的地に行こうとする
あきらめに似た感情だけだった
息が上がり心臓は早鐘を打ち続けるが
かまわず男は登り続けた
やはり、頂きには誰も居なかった
霧に浮かんだ道標と祠が男を迎えた
たしかに男は何かを捨てた
いや、捨てなければならないのだと悟った
汗まみれの帽子を脱ぎ、合掌した

*

首を失った生き物のように、残忍に打たれ
転がっているのは私だった
十一月の刃物が寒さとともに研がれ、この加齢した首を削いだ
十二月、私の頭上にあるのは妄想という球体
腐れかけた妄想がその中に入り込み、浮かんでいる

失われてゆく季節、失われた私
水に名が無いように、私の名も失われ
このように、丸い球体となって、殺がれた私を見ている

木は失意し、空は失速する
草は瘡蓋を置き去りにし、すべての血はうすくなる
時間は歴史となり、眼球は軽石となる

十二月は無造作に私を葬る
影を作ることも忘れた冬が
名もない私を狩る


自由詩 二月からのこと Copyright 山人 2018-05-12 17:10:29
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