南無阿弥陀
腰国改修

私は妙好人ではないけれど
生駒山の山上で夕陽を見て単に
西の方角に西方浄土があるとか思わないけれど
阿弥陀如来の本願を壮大な『ストーリー』とかと
言う奴に共感は出来ないけれど
ただ、南無阿弥陀仏と唱えればよい
なるほど
そうしたら大安心の弥陀の船に乗った
とてつもなく大きな船だから
そこにまた世界があって
娑婆苦があって
だからこそ死んだあと行くんだと
夕陽を見ながら確かに浄土があると
だとしたらこの世は何だろう
生きるとか自分とか
弥陀の船も厳格だったのか
私は腐り体は腐り
百舌鳥の餌のごとく私の体
別に構わない
ただ、南無阿弥陀仏と唱える
宇宙と一体なんて違う
宇宙と私があることが朧脆弱
ならば捨て壊して往こう
すべて捨てて置いて往こう
それが抜け出して
解き放たれるということ
宇宙として永遠の命
だから私はただ唱える
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
本当のことはここにない
だから
苦しみも
痛みも
悲しみも
全部消えるのだ
私も消えて
ただ残るのは
六字の名号

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏


自由詩 南無阿弥陀 Copyright 腰国改修 2018-05-06 00:34:34
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