死を超えたものだけが本当に語ることが出来るだろう
ホロウ・シカエルボク


逆回転のプレッシャーに耐え切れず、回転軸は歪み、それから、二度と、回ることは出来なくなった。軸中央に記されたシリアル・ナンバーは、モルグで割り振られるそれと同じ意味合いになり、つまるところ、埋葬されない死体だけがそこには残されたというわけだ。四月だというのに怖ろしいくらい寒くて、それはある意味で鎮魂には適切だった。熱過ぎる珈琲が食道の内壁を焼夷弾のように焼き尽くしていく午前、アナログ時計の進行は過去と未来を自由と束縛のふたつに仕分けることを前頭葉に強制し続けていた。ブリキの機械が激しいアタックでロック・ビートを叩き出している。山に近い空は雪の予兆を映して、そこいらの連中を困惑させている。循環する先を失った血液は内臓疾患によって喀血した血液のように溢れ出して凝固する。生命の最期を地図にでもしたがっているかのように。寒い春のブルースの始まりはきっといびつなEに違いない。踝の鈍い痛みは闇雲に求め過ぎたせいだろう、次に死ぬのは安物のスニーカーに違いない。短くなった髪の毛の隙間をがりがりと掻きながら、蛇のように体内を泳ぐ朝食を感じている。補給、捕食。何のための摂取なのか。死に物狂いで生きる理由などこの頃じゃだれも抱えてはいない。疲れるだけ効率の悪い機械みたいなものだ。指定された指示をこなすだけの日々なら光の消えた目つきでも咎められたりなんかしない。スターマンは本当に星になり、白く発光していた頑固者もワイルド・サイドの先まで歩いて行ってしまった。犬になりたがってるやつだけがまだ元気に踊り続けている。誰かが鳴らし続ける音だけが音楽と呼ばれるのなら、そこに残されたものだけが音楽と呼ばれるのなら。アートは悲劇のためだけに創造されるのか?それは、万人に値する鎮魂歌であろうとし続ける存在なのだろうか?血を晒し、思考を晒し、傷口を晒し、時にはその痛みに涙を流してさえ見せる、それはナルシズムか?それともリアリズムか―?そんな逡巡が邪魔くさいならすべてエンターテイメントだと呼んでしまえばいい。舞台役者が脚本の通りに激しく涙を流したところで誰もそれを茶番だなんて言いはしないだろう。あまつさえそこには眩しいスポット・ライトだって当ててもらえる。流儀や流派や、主義主張で塗り固めようとすれば、枝分かれして先細りになるのが関の山さ、すべてを受け入れて、その時の手段や目的によって好きなものを選択すればいい。言葉の始まりにはどんな決まりさえ存在しなかった。そこからどれだけ時が流れたのか?無数の言葉があり、無数の表現があり、無数のイズムがある。だけどそんなものに縛られたら、生きながら化石になるのが目に見えてる。氷漬けのマンモスみたいに、百万年もすれば価値が出るかもしれないけれど。そこに始まりがあったことを忘れさえしなければ、アート(エンターテイメント?)は何処にだって飛んでいけるだろう。好きな名前で呼べばいいさ、好きな旋律で叫べばいい、もしもそこになにかしらの制約が存在するのなら、そいつはよく出来た嘘に過ぎない。頻繁に目にするだろう、御託ほどの御作は決して創れないような、そんな連中―エンジニアや、解体業者がやってくる。役割を失った塊は撤去される。床にこびりついた血液も剥ぎ取られて、飴菓子のような形のまま廃棄される。そこにはなにかがあったことを示す妙に真新しい床だけが残される。だけどそれも、時計の進行とともにいつしか隠されてしまうだろう。きみが壊れないという保証はどこにある?おれが壊れないという保証はどこにある?ある日回転軸は突然歪んでしまうかもしれない。おれもきみも、いつしか役目を果たせなくなり、冷たい床に放り出されて、いつしか撤去されるときが来る。御託を並べる前に動けるだけ動いて見せることだ、いまきみの部屋で蠢いているいくつもの音楽や詩文、その作者のどれだけがいまも生きていて、なおかつ新しいものを産み出しているのか―一度でも考えてみたことがあるか?出来る限りやってみればいい、昔よりも保存が効く世界におれたちは住んでいるんだから。


自由詩 死を超えたものだけが本当に語ることが出来るだろう Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-04-08 10:28:59
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