若原光彦

 私の仕事は「ぬ」である。
 なぜ「ぬ」が「わ」だの「た」だの「し」だの「の」だの「こ」だの「濁点」だの「と」だの「は」だの「かぎカッコ」だの使いやがるんだ、とおっしゃるかもしれないが。それは貴方にしたって同じではないか。貴方は全ての言葉を使うことができる。
 何を「ぬ」ふぜいが生意気な、一緒にしてくれるんじゃないよ、とお思いだろうか。それならそれで仕方がないのだろう。私は「ぬ」である。私がいなければ、沼も、塗り絵も、ヌートリアも、アフタヌーンティーやベルヌーイ、イヌイットやカリブルヌスも存在できない。だが、それに感謝する者が果たしているか。いやしまい。それでいいのだ。私達のなりわいとはそういうものだ。
 もちろん個別によるところはある。「あ」や「い」はその存在感たるや著しい。タ行の連中もサ行の連中も、その仕事量は尋常でない。またハ行に一目置かれるのももっともなことだ。彼らにはそれだけの華と、個性と、なによりニーズがある。「ぬ」にはない。
 貴方がたが、たかが「ぬ」と思う、それは勝手だ。お前なぞいなくても、ウェヌスはビーナスとして通用するし、むしろお前がいるからボツリヌス菌もあるのだと、そう思うならそれも勝手だ。私にしてみれば、かような時期はとうに昔だ。幾ら蔑もうと自棄を起こそうと、私が「ぬ」である事実が変わるわけではない。
 私の仕事は大半が否定の末端である。ならぬ。たりぬ。せぬ。こぬ。どちらかといえば気の重い役目だろう。「ない」や「ず」では勤まらないケースが私に回ってくる。そして私がとどめを刺すのだ。問答無用に撥ねつけるように。ひと文字「ぬ」と言うとどうしても気の抜けた印象を持たれがちだが、実務はいつも厳粛だ。
 もちろん「ぬ」の出番が全てが暗い役目ばかりというわけではない。絹のあるところに私はいるし、私なくては絹も成り立たない。シルクと呼びたければそうするがいいが、それで絹の何が揺らぐわけでもないだろう。
 ことは私だけではなく、それぞれの仕事で皆それぞれにありうる。たとえば「ん」は「ん」なりに、自分を抜いては腰砕けだと自負しているかもしれない。「と」は「と」として、安易な登場をしぶしぶこなしているのかもしれない。しかしそれもまた勝手な考えだ。私が思うに、消えていったものもいるなかで、ただ残るものが残るべくして残った、それだけのことなのではないか。


自由詩Copyright 若原光彦 2017-11-17 18:38:07縦
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