夢(一) 全文
沼谷香澄

彼岸から呼び続けてる猫がいる、いいや、あの子はいま膝にいる
気温二九度。湿度六〇%。さあこれからだ、というときに、抑えつけるものがまたやってきた。いいかげんにしてくれいったい誰なんだ。と問い詰めて二十年すこしずつすこしずつもつれた神経回路はほどけていって私は大人になった。
太陽は頭上に眠り青空は不吉な銀に沈み始める
私の尖端を押し戻しているのは何か。母ではない。母は私を愛していた。ただやり方を間違えただけだ。母とはもう完全に切れている(臍の緒だ)、一方で父の影響が大きいので早く異化するように占い師は言った。
待ってくれ。ろくに会わないものを異化できるか(対立できるか)?外面上何の対立もないものを異化できるか?自力で考える限り、敵は思い出の中にしか存在しない。思い出はなかば作られたもの。他人または自分によって。
思い出。思い出の、思い出の傷口を開くこと。影がよぎる。朝日をさえぎる。前でも後ろでも上でもない。ならば下か。屈辱。軽蔑するものからの屈辱。「意志の弱いものの一見弱い人生」を認めない考え方。
母。(要するに、複雑な自分の人格の要素を、自分で整理できていないのだ。)生きててナンボ、というのは非常時も豊かなときも変わらない。この時代にあって私は苦しい。
茶色いりんごを四つに割って丁寧に皮むいて喰う 冷たい 苦い
雨が近い。磯の匂いがする。
腹這いになると下腹が痛むので丸まって寝る床が生温い
かつては、鬼門に頭を向けて眠る私の外と内を同時に通り過ぎていった。またあるときは、私たちの娘(!)の前に姿をあらわして、何かをして見せたらしい。初めは興味深げに見ていた娘も怖がるようになった。
父の生霊。かわいいものを慈しむことの出来なかった(出来ずにいる)父の念(哀しみ)。希望もなく絶望もない父の念。希望なく絶望なき父の念。希望と絶望。
罪ですか?罰せられるほどの罪ですか?意志に反して膨れる目蓋
あまねく世間に潜在する、父を客に母を遣手婆に持つ全てのエレンディラたちに私は涙する。わたしはやられていない。だれにもやられていない。
大事なものは知人に盜まれるものだ担任と三人輪になって踊った
「まあ、勘弁してあげなさいよ」と言う人の不在がことをややこしくした。長い長い不在。全ての人々が老いさらばえるまでの不在。今からでも遅くはない。まあ、勘弁してあげなさいよ。はいわかりました。なんだこの腑抜けたダイアログは。
はなびらのなかやわらかな乱反射。家の東の露草の花
私の千葉はおばさんの居所でもある。父の妹。愛情を拒むもの。父の娘。愛情を拒むもの。父の妻。支配によって愛するもの。父は小さいものを慈しむように女を愛したかった。
性ではなく、愛。性ではなく、性ではなく、愛。私は、一生に一回だけ、父を抱きしめなくてはならないのだろう。そういう意味で私は父を愛しているのだろう。
落とされて足元に泣くあかんぼは縋る事しかできんだろうが
磯の臭いが続く。
もしそこに山がなければ今ごろは焼き殺されていたことだろう
お父さん流される人生はどうでしたか?苦しいとか嫌だとか言わなかったけれど、言いたくなかったですか?酒と煙草だけは老いて衰えるまで絶対に辞めなかったことが、唯一の抵抗、意思表示、存在の主張だったのでしょうか?違いますね。
存在は、主張する必要がないことを早くからお父さんあなたは知っていたのですね?どのように流されても生きている限り即ち、自分は「存在するもの」であり価値が生じる。生きててナンボ、というのは非常時も豊かなときも変わらない。
よくぞ生き抜いてくださったお父さん。
不可能な彼が真夏の雲に乗り周回遅れのわれを見おろす
しかし私はいまだに抑えつけられている。例えば。欲はいけない。嫉妬はいけない。というような日常の小さなことの積み重ねが自身を押さえつけていないとは言い切れない。
ということは押さえつけられない方向へ進めばいいのだ。日常の小さなことの積み重ね。遠くの父。微熱がゆっくりと引いていき、右手の親指が激しく震え始める。待ちなさい。早急にすべての解決を求めてはいけない。


初出:Tongue9号 2004年7月18日 原文縦書


短歌 夢(一) 全文 Copyright 沼谷香澄 2017-11-15 22:46:35
notebook Home 戻る  過去 未来
この文書は以下の文書グループに登録されています。
個人誌「Tongue」収録作