保育園の頃の記憶
宮木理人

縁側から見える風景は、タイヤの遊具とうさぎの小屋、小高い山と、その裏に生えているバナナの木。
住宅街のなかで息づくその空間の真上にはいつでも空空空空空空空空空空空空空空空空が流れていた。
目に飛び込んでくる光景はどれもが無条件に新鮮なもので、それを見る眼球そのものもミニトマトのように瑞々しかったな。

その日はとにかく晴天だった。
自分はふと立ち止まって園内に一本だけ建つ電信柱を見上げた。
今思えば、そんなもの本当にあったかどうかも疑わしいが、
太陽の光が眩しく、黒いシルエットとなった電信柱が空と重なる景色を見たとき
涼しい風が一瞬吹いて、頭のなかを流れる血液が、新しい部屋を探しだすように動いた。

「大人になるにつれてお前はこのような何気ない景色を、何度も忘れそうになるだろう」
自分のなかから知らない大人の声が聞こえたような気がした。それはひとつの警告のようにぼくの体の内側に響いた。





お泊まり保育もした。
夕方の涼しい風に吹かれながら、皆で並んで夕飯の買い物に出かけた。
こうすけ君は、たまねぎを買うときに「一つ」とうまく発音できなくてお店のひとに「ひとちゅ…!ひとちゅ…!」と言っていた。
帰って来て先生の指導のもと、自分たちで包丁を使って具材を切ってでかい釜にぶちこんだ。
本当に大きな鍋だった。ぐつぐつと煮えたぎるカレーが出来上がった。

先生はビデオカメラを片手に持ちながら、その小さな躍動を淡々と記録していた。
後日それは一本のビデオテープとなり、みんなに配られた。
さっそく家のテレビで再生してみると、皆で行った銭湯の入浴シーンまで撮影されていて、その時一般の客として訪れていた婆さんの全裸も、ちょいちょい映り込んでいた。

やがて時が経ち、何回も引っ越しをするなかで埋もれたVHSのラックのなかでカビだらけになったそのビデオテープが出て来た。あまり覚えてないが、さすがにそれはその時捨てた様な気がする。


言語化できないものばかりに興味がある。
この世に生まれた時点で自分の眼球は二つしかなく、全宇宙どこにもない唯一の視点を獲得してしまっている。
みんなと一緒であることが確認のしようがないほどの色彩や感触
抱きしめることもキスをすることもできるようでできない実体が
記憶のなかだけで揺らめく





水平線を上下するカモメの群れは
父と行ったいつかの釣り場の漁港の風景で
今でも内側で陽を浴びている
幼いぼくはそこで魚を釣って
バケツのなかで泳いでいる姿を眺めていた
発電所の裏側のような場所で、工場地帯のような無機質な建物が背後にあった
両隣にも、違うファミリーが釣りを楽しんでいた

大人になってから地元へ帰った時
車を走らせその漁港を探したが、いくら探しても見つからず
父に聞いても全く覚えていないという



自由詩 保育園の頃の記憶 Copyright 宮木理人 2017-11-03 23:02:32
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