夏の終わりにー小さな庭の物語­­
忍野水香

 庭に植えたパッションフルーツの実が殆ど終わったので、夏の間に繁りに繁った葉や蔦を、かなりばっさり切り落としている。なにせ、玄関を開けると、蔦が邪魔して玄関が閉められない状態だった。(まるで秘密の花園の入り口のように)ベランダは数日ほっとくとすぐにジャングルと化し、私の可愛いアーモンドや桜の樹に巻き付いて覆い被さっていた。
 表側から見ると葉が青々として綺麗なのだが、玄関側から見ると日陰になっている部分の葉っぱが、けっこう枯れていた。毎日少しずつ切り落とし、四十五リットルのゴミ袋がもう十袋位になったが、まだ手の届かない所が沢山あるので、いかに葉が繁っているか想像できるだろう。とにかく毎日、蔦を引っ張って、ハサミで切って、ようやく玄関から空が見えた。下から引っ張って切り、ベランダから引っ張って切り、ようやく家の壁が出てきた。
 花も実も楽しませてもらったが、巻き付かれていたアーモンドの樹は、蔦で締め付けられ、葉で覆われて陽が当たらず、あちこち葉や枝が枯れ、瀕死の状態だった。成長が華々しく、著しい存在の陰には、こういう負担を強いられ、痛手を被る存在が往々にしてある。
 陽の射さない裏側は枯れてしまっているが、それなのに、パッションフルーツの根元の辺りから、アスパラが巻き付き、ベランダまで達していたのにはとても驚いた。アスパラが蔓のように伸びて、ぐるぐると巻き付き、三メートルにもなっていた。しかも、アスパラには小さな棘があって、手で引っ張ると痛いのだ。
 他の樹や植物を圧迫し、覆い被さって苦しめていたパッションフルーツも、実はアスパラに苦しめられていたのだ。だんだん葉も枯れ始め、葉も少なくなったが、ひっそりと葉の陰に隠れていた実を発見して、嬉しくもあった。物事には、表も裏もあり、まるで人生の縮図のように思えた。
 小さな庭の、小さくて大きなドラマだ。
 視点をパッションフルーツから見るか、アーモンドから見るか、アスパラから見るかで話の観点が違ってくる。どれがいいか悪いかではない。そもそも宇宙には、いいも悪いも無く、ただ、その現象があるだけで、それを見る側が、勝手に善悪をつけているのだと、何かに書いてあったが、まさに、この箱庭のような小さな庭でもそうなっている。たかが、伸びすぎた葉を切っているだけなのに、こんなドラマが見えてくるのが面白い。
 真理は、本や物語の中だけに存在するのではない。こんな一見ささやかな、日常生活の片隅にも見つけることができる。ただ、それに気づいたり、感じたりできるかどうかだ。いつも心を柔軟にして、日常に埋もれる小さな出来事を見落とさないよう、感性を磨いていたい。


散文(批評随筆小説等) 夏の終わりにー小さな庭の物語­­ Copyright 忍野水香 2017-09-10 15:48:25縦
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