真の「弧独心」の大切さについて
あおい満月

         
人というのは、生まれながらにして孤独を背負う生き物なのだと確信した時から人生が始まったような気がする。私がこの事実を教えてもらったのが、27歳ぐらいのときで、けれど、27歳になっても、その確たる意味がわからなかった。その頃は若かったし、恋人もいたし、孤独を強く感じるようなことはなかった。しかし、時を経て、10年後、37歳になった私は今、ひしひしとこの孤独について感じている。今は、愛する人や、家族や仕事仲間がいる。寂しくはない。けれど、そういった人たちと本当の意味で真剣に付き合っていくなかで、私は自分のなかの「孤」を感じる。今のパートナー(愛する人)も永遠ではない。必ず避けられない別れがくる。それが死である。その事実をしっかりと受け止め、過剰な依存心を捨て、自分は自分、相手は相手として向き合わなくてはならない。私は考える。それが上手くできない特に若者が多いから、犯罪や、今流行りの不倫などが頻発するのではないのだろうかと。犯罪はストーカー行為、幼児虐待、殺人。不倫や浮気も、
元を辿れば、異常な寂しさからくる依存である。「一人になりたくない」、「愛されたい」そして何よりも、「自分の存在を認めてほしい」のである。けれどそれは一歩感情を離して見てみれば、単なるエゴイズムである。「自分の存在を認めてほしい」などは、誰にでもある感情である。けれど、もしもそんな感情が世のなかに溢れかえってしまったら、恐ろしいことになるだろう。他者を押しのけ、前に出る。弱い者は潰れ、強い者だけが生き残って、またその強い者たちのなかで争いが起きる。戦争がまた勃発してしまう。負の過去がまた繰り返されてしまう。だから、本当の人間性を持った人というのは、自分を表に出さない。
自分を見据え、他者を見つめるのである。そうして他者を理解したうえで、向き合うのである。私は37歳にもなる、本来なられっきとした「大人」の女性だが、まだまだ未熟で、幼稚っぽい面も見受けられる。そのうえ先を急ぐ「せっかち」である。思い込みもまだまだ強く、客観性に欠ける。だからこうして、文章を「書く」ことによって自分の客観性を育てているのである。所謂「自己カウンセリング」である。そうして、この文章の向こう側にいる人たちに届ける気持ちである。この気持ちをなくしてしまうと、単なる自己満足になってしまう。ここがこの私流「自己カウンセリング」の注意すべき点である。また、ただ「聴いてもらいたい」「読んでほしい」だけの願望ばかり抱いていても、先程書いた「エゴイズム」になってしまうから、書き手である私と読み手である他者との間に「独立心」が必要である。けれどそれが強すぎても、弱すぎてもだめである。一番大事なのはバランスなのである。この世の中のすべてに大事なのは「バランス」であり、私はこのバランス感覚が優れている人ほど尊敬する。自慢になってしまうが、私の彼は、このバランス感覚がピカイチである。だから誰からも信頼され、友人が多く、頼りになる「兄貴分」である。
話は戻るが、「弧独心」を持った人の背中というのは美しい。特に男性。私の職場でも結構いるが、真の孤独心を持った人の背中とはセクシーである。色で言うと、淡い紫がかった青だろうか。夏らしく、非常に美しく感じる。


散文(批評随筆小説等) 真の「弧独心」の大切さについて Copyright あおい満月 2017-08-17 15:26:12縦
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