「才能」は時に「凶器」になることについて
あおい満月

秒針が耳の背中にこびりついてはなれない。
私は朝を生きながら夜を数え続けている。浮
かんでは消えていったいくつもの海月たちは
無言の会話を繰り返して味のない笑い声を立
てる。見えない海が目を覚ますとき、私は初
めて生まれる。何度でも繰り返し繰り返して
私はできあがる。目のなかに赤い血が溢れた
と思って目を開けたとき、真っ赤な朝焼けが
網膜を引き裂いた。そのときに、私はまた気
がつく。歩き続けた道を、また今日も歩いて
いくと。

これが、今朝一番で書いた最新の散文詩である。自分のなかで、詩が少しずつ枯渇しているように感じる。そんな気がしてしまうのは、それもそのはずだろう。私は「詩」への依存を止めたのだから。「詩」と自分との距離の取り方を少し変えたのだ。今までは、詩が呼吸をするようにそこにあった。私はそのことに何も疑いを持たなかったし、それが自然であり、それが自分自身だと信じ込んでいた。しかし、それはとんでもない落とし穴だという事を彼に教えられた。以来、私はたとえば「詩を書いていないと辛い」とか「寂しい」とかそういうしみったれたような感情を自分と詩の間から捨てた。私はそんなに才能なんてある詩書きではない。賞に出しても、佳作や入選程度だし、でも出し続けるのだけれど、詩集を出すような財力もない。文学で生きるということは、とりわけ詩の世界は財力が殆どものをいう。詩集を出すのも、同人誌に入るのも、研究会のような勉強の場に出るのも、
賞に出すのも最近では審査料を取る賞が増えているような気がする。それに私の年齢も関係している。37歳。若いと言われれば若いが、10代、20代からすれば明らかに歳をとっている。だからなおさら、「社会性」が問われる。これが20代前半の若者だったなら、
仕事をしていなくても、ちょっと「いい詩」を書いて投稿すればもてはやされるかもしれない、一躍「時の人」になれるかもしれない。しかし、そこには勿論危険性も孕んでいる。
それは、もしも「書けなくなった」ときのことである。才能だけでぽんぽんときてしまったタイプは、出来なくなったときのショックの対処法を知らない。挫折を知らないので、
這い上がり方がわからないのだ。それは詩の世界だけではなく、普通の会社のサラリーマン、OLの世界でもあるのである。挫折を知らないエリートタイプの例えば男性なんかは、口のきき方すらも知らない。ましてや若いとなると例えば新型うつというれっきとした精神病も「単なる怠けだろ」、などと打ち切り、話を聞こうとしない。具合が悪くて、今日は休ませてくださいと連絡しようものなら、「行きたくないだけだろ、ダメだ!来い!」などとやくざ風である。これは私が勤めた某鬘(かつら)業界での話なのだが。よくもまあ、こんな口のきき方も知らない、話を聴こうとしない、極め付けるタイプの人間が、結婚して子供を儲けてのうのうと生きているものだと呆れてくる。以来私はエリートタイプの男性は苦手である。というか、大っ嫌いだ。地獄に堕ちろと言いたい。話は反れたが、とにかく「才能」というものは、よいものであるが、とても怖い凶器である。そして、これは若い詩人にありがちかもしれないが、フリーター、無職が呆れるほど多いが、絶対にちゃんとした「職」を持っていたほうが良い。勉強が出来て、学歴も大変よろしくても、社会に出て貢献していなければ意味がないのである。発言権すらもない。そういった意味では、私はあまり文学の才能がなくて良かったのかもしれない。ほどほどで良かったのかもしれない。あとは、
やはり、母親に、母系一族(叔父、叔母、祖父母)にはとても感謝している。けして裕福ではないが、地道で勤勉な人たちだ。私は母から生まれてきて本当に良かったと思っている。ありがとう。そして、いつも生きることについても、詩についても時に辛めだが、的確なアドバイスをくれる私の彼にも感謝している。そして、仕事。上司、先輩たち。私の大切な寶である。
 詩の話に戻るが、また賞が近づいているから、いずれにせよ書かなくては!
それでは、ネットカフェに行ってきます。


散文(批評随筆小説等) 「才能」は時に「凶器」になることについて Copyright あおい満月 2017-08-12 04:48:34
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