散文
哉果


どうせいつか死ぬんだから、が口癖の昌孝は、だからわたしが結婚しようって言った時も素気無く断られてしまった。
「どうせ死ぬんだから」
俺が死んで灰になったらきっとお前は泣くんだろう、俺の仏壇の前でしんみり鐘を鳴らして手なんか合わせちゃって、仰々しい黒檀色の箱に向かってぶつぶつと恨み言を言うんだろう。
「そんなの御免だね」
反吐が出るとでも言いたげな眉間のシワにそれでもこれ以上強い口調で言葉を続かせないように、一度唇を結び直す彼はやはり優しい人だなあと勝手に感じ取って頬が熱くなる。
「なんで?いいじゃない、わたしはあなたと結婚して、あなたが死んだ時にはあなたが死んだことで泣きたいよ」
あらゆる悲しみもあらゆる深手も傷も体温も非道い言葉も喪失ももちろん左薬指の指輪でもあなたのくれるものならなんだって嬉しい。後生大事に抱えて生きて行くから、今はもっとそれだけが欲しい。
心底理解できないといった風に細身の腕時計のバックルを引っ掻く。皮の表面が一箇所だけ擦り切れているのはそれが無意識の癖になっているからだろう。不快なのだ。
他人に微塵も興味がないくせに、他人を傷つけることだけを脅迫的に避ける彼の優しさに似た意固地は私を堪らなくさせた。生きることに辟易する彼の自己愛が、一瞬でもこちらに向けばいいと思った。
「やめてくれ」



「俺がまるで唯一無二で、尊大で、愛された、まっとうな人間のようじゃないか。勘弁してくれ。矮小で、あってもなくても同じつくりものの観葉植物のように、誰も俺の名を知らず、悲しまず、喜ばない存在でありたいんだ。俺を見て何も感じないでくれ。思い出すことも忘れることもしないでくれ。そうでないと、俺はどうにかなってしまいそうなんだ。」



昌孝に傷つけられる日をわたしは望んでいた。彼が何者をも傷つけないということは、彼が何者をも許すということだった。彼は違うことなく優しい人だった。いつも微笑んでいて、ごく稀に苛立っているそぶりを垣間見ても、その色は鯉が餌を屠るより早く失せてしまう。




散文(批評随筆小説等) 散文 Copyright 哉果 2017-07-25 12:30:08
notebook Home 戻る  過去 未来