雪原の記憶
山人

 私は警察署に来ていた。
あれだけ面倒くさい手続きやら、身辺調査やらをクリアし、ようやく手に入れた銃と所持許可であったが、止める時はなんの造作もないものだ。
書類手続きに慣れていない新任の警察官は、書き方がわからないらしく、たびたび席を外していた。
すでに分解された銃の一つを手に持ち、銃身に唇を当てた。冷たい感触と浸み込んだ火薬のにおいがした。

 
初雪が降り、融けたり消えたりを何度か繰り返し、根雪となる。
あたりの雑木は雪に覆いつくされ、山々の起伏がはっきりとしてくる。
深夜に雪が降り止み、朝方にはウサギの活動痕が目立つ頃である。
ウサギは夜行性で、夜に活動する。夜、食餌のために小枝の先の冬芽を求めて出歩く。
また、一月を過ぎると既につがいを形成するようだ。
餌を食べたり、つがいの相手を探したりとあちこちを動き回る。キツネやテンなどの天敵から逃げたりする時間帯でもある。
夜が明ける前に、ウサギは寝屋と呼ばれる場所を選び身を隠す。
ほぼ同じ区域に生活しているが、寝屋は一定ではない。
寝屋の特徴は雑木が傾斜した根元の雪の中をシェルターとして利用するのである。
シェルターを確保し、日中はそこでじっと休み夜を待つのだ。
 当地区では、ウサギは古くから冬場の貴重な蛋白源として、狩猟が広く行われていた。
昔は、全域の男達が銃を所持してた時代があったという。
自然が豊かで製炭や薪燃料として木が適度に伐採され、キノコや木の実が豊富に実り、豊かに物質循環が行われていた時代である。
すなわち、山に住む獣にとっても豊かな食料を手にしていたのである。
山では多くのウサギが獲れ、子供の頃の記憶では週に一度はウサギ汁を食べていた。
 最近では、銃規制も厳しく、銃所持者の高齢化にも拍車がかかり、狩猟を行う人は激減していた。
当地区の猟人も最低年齢が既に四十を越えていた。しかしながらマタギや狩猟の伝統を守ろうとする少ない人達によって、今でも猟は続けられている。
 深夜、雪がほどよく降り、朝から晴れ上がった日はウサギ猟に適している。
夜、雪が降らない時は、極めてウサギの活動痕が多くなる。つまり足跡が多過ぎて居場所の特定が難しくなる。
深夜、適度に雪が降れば、余計な活動痕は失せ、寝屋に近い部分の足跡が残る。
寝屋に入る前にウサギは独特のカムフラージュ痕を残す。寝屋の手前から徐々に足跡のリズムが少し乱れ、とぼとぼしたような足跡を残す場合が多い。悩み痕だ。
適当なシェルターが決まると、シェルターの前を通り過ぎ、一定の距離で停止し、回れ右をしシェルターに入り込む。ウサギの足跡が忽然と消え入る箇所があるのだが、こういう場合は得てして近隣に潜んでいる場合が多い。ただ、場合によってはこういうカムフラージュ痕を幾度も繰り返している場合もあり、百戦錬磨の狡猾なウサギも多い。
 ウサギを追っていると、奇妙なことに気付く。寝屋に潜むウサギが危険を感じると、まず逃げるのだが、それをどんどん追っていくと再び同じ地形に戻るのである。これはウサギ自身も意識しているわけではなく、一種回帰性といった本能なのだろう。確実に逃げるのだが、ふと立ち止まり追っ手の位置を長い耳で聞き耳を立て判断するのだ。
 私は単独猟が好きだった。猟場を選択し、コース、居場所や地形を選び、場所を特定する。そして如何に効率よく捕獲するために、どう近寄り、どうシェルターからウサギを追い出してやるか考えるのである。それらがうまく一致した時に、初めて捕獲が可能となる。

私が直接銃を止めるきっかけになった事件があった。二〇〇六年の事である。
熊狩りの時期になったら、今年こそ参加しようと思っていた。
 熊狩りは、冬眠明けの熊に限って害獣駆除という名目で、数等の捕獲が許されていた。
熊狩りを行う人は勤め人が多く、平日に熊狩りに出られる人は少ない。複数人でなければ熊の捕獲は出来ない。
熊は他の獣と較べると著しく警戒心が強く、嗅覚・聴覚が敏感だ。また、強靭な骨格や硬い脂肪の皮脂があり、岩場から転がり落ちても怪我を負う事はない。まさにゴム鞠のような体なのだ。しかしながら、薮の中を猛進することができるよう、目は小さく、視力は良くない。
当地では熊のことを「シシ」と言った。
熊狩りのことを「シシ山」と言った。このシシ山は、狩猟人の集大成とも言える猟だ。
チームワーク、勇気、あらゆる力が試される場であった。
 小黒沢地区では、最長老の板屋修三氏の自宅がシシ山の本部であった。
現場のリーダーは最近選任された村杉義男氏。板屋氏は既に八十を越えており、村杉氏も七十近い。村杉氏の補佐や助言役として、私の父や元森林官など五名ほどが取り巻くと言う図であった。
 熊の捕獲には、指示役・勢子・鉄砲場の三種類の役目がある。指示役が熊の位置を把握し、鉄砲場に熊が向かって行くよう勢子に効率よく熊を追わせる。熊が追われて逃げる地形はおおかた決まっていて、鞍部(稜線中の凹んだ場所)やヒド(沢状となった窪み地形)目掛けて移動する。全く障害物のない白い雪の台地を逃げることはなく、薮や木の多い所を逃げる。ウサギなども同じである。上手くいけば台本どおりだが、なにしろ大物猟だから、関わる人の意識は高揚しており、単純なミスも結構ある。また、人の立ち位置で大きく熊の進路が変わることもあり、慎重に作戦を立てる必要がある。
 その日は私は父から「熊が居る」と聞き、本隊から少し遅れて家を出た。ホテル天然館の除雪終了地点に車を止めると隅安久隆が居た。三十代後半で猟友会では一番若い。いつもニコニコしている気さくな独身青年で、地元の建設会社で現場監督をしていた。最近は猟のほうも腕を上げ、ウサギや鴨では一番の獲り頭となっていた。「熊を撃て」と言うが、「いや、俺は勢子が良い」と、自分の持ち場を決めていた。
 私と隅安は遅れて本隊に合流した。熊のおよその居場所は掴めているようだ。大門山塊に白姫(一三六八メートル)というピークがあるが、その一〇〇〇メートル付近に居るとのことだった。隊は十一名、鉄砲場(射手)三名、目当て(指示役)二名、本勢子三名、受け勢子三名という人員配置であった。私達は受け勢子で、最も熊との遭遇が考え難い配置にあった。
 本隊は上白姫沢左岸尾根一〇〇〇メートル付近の熊を囲むように配置された。我々受け勢子は、上白姫沢左岸尾根の左手にある黒禿沢左岸尾根に取り付いた。一番若い隅安は上白姫沢左岸尾根に向かう途中の中腹に待機していた。元森林官の間島洋二と私は、黒禿沢左岸尾根で様子を窺っていた。
 全員が配置につき、勢子の活動が開始された。真山(熊の居場所付近の配置)からなるべく遠いところから勢子を始めなくてはならないので、最初に間島が「鳴り」を入れた。残雪がたっぷり残る山々に、一見のどかな「おーい、おーい」の勢子が響き渡った。続いて勢子鉄砲を数発私が放つ。これものどかに「ポーン、ポーン」と雪山に響いた。やがてイヤホンの無線から慌ただしく「シシ(熊)が動き出した」との無線が入った。それと同時に、今度は真山の下部にいた本勢子たちが「鳴り」に入る。村杉の無線によれば、熊は計画通り射手の方へ向かって進路をとっているとのことだった。私と間島は、熊の捕獲を確信し喜んだ。
 一閃、鉄砲が響いた。仕留めたのか・・・・。まるでスローモーションを見るように、熊は上白姫沢左岸尾根から隅安のいる斜面に向かって走り出てきた。隅安の近くをかすめるように熊は転げ、私たちの方へ下ってくる。隅安の銃は連続三発熊目掛けて射るが、殆ど当たりはないようだ。熊は私と間島の近く百メートルほどまで近づいてきた。「拓也、撃てっ!」。必死に銃を溜め、熊に射る。これは、隅安が再び熊を射止める為の勢子鉄砲であると共に、真山への勢子鉄砲でもあった。一種の威嚇射撃である。熊は七十メートルまで接近してきた。今度は本格的に射止める射撃に入る。しかし、最近熊を射止めたことがなく(九年前に三十メートル近射で熊を射止めたことはあった)、遠すぎてどこを狙って良いか戸惑いながらの発砲であった。数発撃ち、徐々に当たりを確信した。しかし、酷にも弾切れに。
「間島さん、弾が絶えた・・・・」
「散弾でも何でも良いからぶてや!」
私は必死に散弾を込めて放った。
 熊は沢に入ることなく、再び隅安のほうへ向かって逃げ始めた。熊は隅安を見たのか、彼の三十メートル下の雪と薮の間を進んで行った。間島はしきりに無線を入れて、隅安に熊の位置を教えていた。私からは熊の位置は丸見えだが、隅安からは薮に隠れて見えない状態だ。熊は薮を上へ上へと移動しているので、先回りして熊の真ん前に出て撃てと言う内容の無線だ。隅安も熊を確認したらしく、銃を構えながら薮の中の熊に接近し始めた。あまりにも近くなので、我慢し切れず隅安は数発撃った。何秒もしないうちに、雪の上に熊が現れた。意外に早かったが、あとは隅安が仕留めてくれるだろうと願った。ところが隅安は逃げ始めた。弾切れになり、弾の入れ替えが間にあわなかったようだ。十メートルほど逃げた。しかし熊の野生には敵わない。最後の抵抗で、銃床部分で熊の鼻先を叩いたようだが、彼らの背後には沢の岩肌が迫っていた。
 隅安と熊は、互いに絡みつくように沢の窪みに落下した。同時に大きな雪塊が彼らのいる場所に落ちた。数秒後に熊は我々の間を横切り、途中の沢筋の穴に隠れて姿を消した。
 彼は独身だった・・・故に子供は居ない。それだけが救いであったのか。無線で事故の事を能天気で話している猟友もいる。まだ事故の重大さを皆が解っていないようだ。実際にこの修羅を目撃していたのは私と間島だけだった。
 空は澄みきり青空だ。無線は相変わらずやかましい。私は祈るしかなかった。万に一つの可能性があるとすれば、生きていて欲しいということだけだった。間島は狂ったように、「たかー、たかーっ」と叫び続けながら、彼が落下したと思しき位置に向かって歩いていった。夏のような陽気で暑く、雪は重く粘った。
 「久隆は意識はあるし、自力で立てる」・・・・・。
全身の力が抜けてくるような、奇跡の光のような無線だった。足場の悪い沢を上っていくと、隅安がいた。顔中が腫れあがり、いたるところに血が出ていた。耳は片方の三分の一ほど爪で打たれ欠損していた。皆が集合して、鉄砲場の長井と私が応急処置にあたった。どこが一番痛いかと聞くと、右手の上腕が酷く痛むという。衣服を切り裂いて患部を開けてみると、すっぽりと穴が開き、中の肉が抉られているようだった。頭と上腕に手当てを施し、私のほか二名と下山した。隅安は少し寒いといった。軽いショック症状が出ているのかもしれないと思い、ジョークを言い合ったり衣類を着せたりした。出血はあまりなくて、どれも急所を外れた傷であった。
 ホテル天然館に着くと、警察・救急車や関係者でごった返していた。目撃者ということでもあり、私が警察やマスコミの質問に答えた。小黒沢集落の熊狩りの歴史上で、これだけの事故は初めてだとのことだった。熊と正面で出くわしたが、転んだ弾みで熊が人を跨ぎ、傷ひとつ負わなかったという事はあったらしい。
 今日の事故の責任は誰にあるのか、いろいろと戦犯も上げられた。最初の射手が動いたため、私たちの所に熊が進路をとったとする説。私も戦犯の一人であると言われたのは言うまでもない。ただ、熊狩りで熊を撃つ場合は「なるべく近くで撃て」と言われていたはず。あの場面では、熊は黒い点の野球ボール程度にしか見えなかった。だが、当たらない距離ではない。結局、誰が悪かったのか・・・。あまり深い追求はしないにしようと相成った。
 しかし、熊と言う生き物の凄さを改めて皆が知ることになっただろう。隅安はあれから小1ヵ月も入院し、その後仕事に復帰した。彼を襲った熊は、事故後数時間で穴から出てきたところを捕獲された。


自然環境保護員でもある私は、三月、ネズモチ平を目指し、カンジキで歩いていた。
私の目の前をウサギが飛びだして走りぬけていった。
BOWBOW!、銃をイメージしウサギを撃った。
タイミングよく、ウサギは雪原に横たわり、痙攣をしながら息絶えていた。
私は即座に、腹の毛をむしり、ナイフを突き刺し、横隔膜の中の血を吐かせ、肝臓だけを残し、腸や胃や膀胱を手で取り出して捨てた。
あたたかいというよりも、熱い。先ほどまで生きていた、躍動していた、逃げるという事に集中したウサギの命の末路が未だ温度として残っていた。
私は血液のついた赤い手を雪で洗った。
銃のない私は、想像していた。あたたかい血や、内臓の剥ぎ取られる瞬間を。





散文(批評随筆小説等) 雪原の記憶 Copyright 山人 2017-04-22 06:27:01
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