いにしえの夜の復権‐‐蜂飼耳『顔をあらう水』
kikikirin75

朝を迎えて、顔を洗う。一日の始まりの清廉な所作を、ぼくたちが儀式のように行うためには、まずは夜と昼の領分が確定され、かつそのサイクルが正常に作用しなければならない。
しかし果たして、夜はかつての夜のような深淵なる昏さを湛えているだろうか。人類が文明の火を得てからというもの、暗闇は夜の領分から切り取られ続けてきた。月や星のささやかな輝きは絶え(人に踏まれた過去のある月の顔かがやき出す/踏まれた跡もそのままに【103頁「テレビ消すよ」】)、都会に夜景という昼のいびつな比喩が拡がり続ける時代に、いにしえの夜の深淵なる暗黒を、人類が存在しない静寂を、われわれが正確に思い起こすためには非常な困難を伴う。われわれは文字通り「テレビを消す」ことから始めるべきだろうか。
この詩集は、そんな太古の暗闇に想いを馳せている。もちろんそれは、安直な非・文明、いわゆる「野蛮」や「古代」への賞賛とはまた違ったやり方だ。われわれが切り取ってきた夜の領分を、月を、星を、闇を、静寂を、そして死者を、そのまま夜にお返しするという礼節を詩人はわきまえている。

檻のなかにいるものがなぜそんな/楽になっているのかわからない/いつか発明したつもりの火/なじんだ闇をすっかり枯らして/あかるくつかれているたぶん/大気圏のそとには宇宙ステーション/地下はあたまがいたくなるほど深く掘られて/ヒトはいよいよ忙しい/ねむるための闇が軽くなり/(わたし(たち)は)薄くなる 【32、33頁「顔をあらう水がほしい」】

プロメテウスの逸話をわざわざ引いてくるまでもなく、人類の叡智の営みはおそらく火から始まった。そしてその叡智は、絶えず外部を取り込んでいくというひとつのベクトルが与えられている。人類が自然を拓き続け、ときに手痛いしっぺ返しを食らってきたのはひとつの事実だ。
「顔をあらう水がほしい」は、さらにこのように続いていく。

地上の地図はもう完成/でも、地形はたえず変化している/朝、/飛行中の窓からは富士の高嶺が 【33頁「顔をあらう水がほしい」】

遥かなる宇宙ステーションの高みから見下ろされる地図と地形。そして富士の高嶺。『顔をあらう水』を通じて「日本」は立ち返り現れる。それは「火」と「日」という音の連なり、そして日本がアジアを指導するという「文明国」だったという歴史的事実のふたつの回路から導き出されていく。

あたえられた日本語のからだと交わり/交わって探索し飽くことはない/生きるものの心はいつもまるで新しい/(檻のなかにいるものがなぜそんな)/(楽になっているのか) 【34頁「顔をあらう水がほしい」】

ここで冒頭の「檻」とは「日本語」であることがわかる。詩人が日本語を使って詩を書くということの自覚がここにはある。文明という語を、無理に中央で仕切ってしまうと「文」と「明」であるように、文字と火は文明の象徴でもある。

振り返るときの/仕方をまちがえ/顔という顔は汚れている 【24頁「ゆえに、そこにそらの」】

このような冒頭から始まる「ゆえに、そこにそらの」は日本語に限らず、文字、ひいては言語の決定的な瑕疵を深く自覚している詩だ。

口からの言葉は人に遅れて、というのは/むかしのことではない、いまのこと/文字のかなしみ/(取り扱い注意)/文字という容れ物の/吊り橋のきしみ/人のいない世界はどんなだろう 【25、26頁「ゆえに、そこにそらの」】

文字は、というよりそもそも言葉は、現実そのものに対して決定的な遅延が生じる。同時に、言葉はものそのものではない。そこには絶望的なまでに差がある。しかしわれわれは、そんな言葉の世界の中で生きてしまっている。われわれは果たして、言葉に塗れていない、火で煤けていない、清潔な顔、に達することができるだろうか。

というより/痕跡を残して非参加に/(それで、あるいは、それでも)/日と月のめぐりに不具合はなく/人のいない世界、どんなだろう/地と水を分け合って、仮の居場所を借りて仮寝の/「はい」「いいえ」/まっしろな、鳥のまばたきと羽ばたきに/色を変えつつ海の呼吸が映るなら/参加あるいは非参加の/もたらす航路がそこにあり/見えない「はい」と「いいえ」を運ぶ/口からの言葉はいつも、いまも/人に遅れて/間に合う前に/軽くなる 【28、29頁「ゆえに、そこにそらの」】

言語はそれ自体外部があって初めて存在するにも関わらず、外部を侵食する。それは「はい」という語に「いいえ(非・はい)」が本質的に内在してしまうことと同じだ。昼の明るさは夜の昏さを吸い上げ続ける。このことと「日本」と関わり合いながら顔を出す「戦争」はきっと無関係ではないだろう。そのとき詩人は、夜の領分へともの自体を返すという態度を選択する。繰り返すが、それは決して、単なる夜の称揚ではない。顔を洗うという所作は、もう一度正しく昼を迎えるために必要なひとつの儀式だ。

<この文章は2017年3月25日にprivate box(https://kikikirin75.tumblr.com/)に投稿したものです>


散文(批評随筆小説等) いにしえの夜の復権‐‐蜂飼耳『顔をあらう水』 Copyright kikikirin75 2017-04-09 23:31:58
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