神について
グロタン

神様についても自分なりの考えを書いて見ます。
おそらく誰もが神様という単語を先に覚えるはずです。神の教え仏の教えを神父さんやお坊さんから聴いて神仏をイメージするはずです。それはそれで一般的な認識としての神仏でいいと思います。ここではとりあえず横に置いておきます。
 なぜ、特に若い人は詩を書くのでしょう。おそらく心から湧き上がってくる、不思議な力の謎を解くためではないでしょうか。そしてこれはおそらく太古の昔、この名状し難い力を宗教の教祖が神様仏様と名付けたのでしょう。
ではなぜそれを特別扱いするのか、それは神の声仏の声は私の心の声私の内の声ではなく私の内の内の声だからです。つまり私という存在を超越した私以上の私の声、私にも制御出来ない不思議な力でしょう。
これは別に宗教性に限定することではなくて、個人的には神様仏様という言葉より「無私」という言葉がイメージし易いです。中心が同じの大きな円と小さな円を書いて、円全体を私とみると大きな円と小さな円の間が私、小さな円が無私という構図です。
つまり無私は私よりもより深いもの、より真実なものになります。無私からの歓喜は私の真実の喜びで、人間という存在は自分自身にも押さえられない不思議な無私の声に従うしかないのではないか。私に向けて私以上の生の充実感やリアリティを運んで来る力。もしそうならば無私の声に従って(神様の声に従ってとか仏様の光に導かれみたいなイメージでしょう)生きる人生が最高の人生と呼べると思います。
確かにそんなのは理想論だとは正直感じます。
ただ「詩」とはこの意味での総称だと私は考えます。無私なる体験をした人がそれぞれに名付けています。
ランボーは「私の中に他者がいる」と言いました、エマソンは「自己信頼」を叫びます。エックハルトは「神は私よりも内側にいる」と言い親鸞上人は「他力」を説きます。ベルクソンは「純粋持続」西田哲学は「絶対矛盾的自己同一」、カントハイデガーフッサール、みんな同じだと思います、漱石の「則天去私」透谷の「内部生命」世阿弥の「花」西行の「花」、芭蕉が言ったように「その貫道するものはひとつなり」ということではないでしょうか。読書家のかたはもっと知っていると思います。
それで結論ですが、この「無私」の声が詩の源泉ではないかと考えます。私を飛び越えた私の声、私を導く不思議な力。魂の主調低音。それに従って自分で精神の道を実際に歩く、無私の声を育ててゆく、育てながらうたう、うたいながら育てる。
 
「私は神を必要とするが、神も私を必要とする」(確かこれもエックハルトだったはず)。神の声を、無私の声を詩人の肉体を通して社会の中へ導き出す。詩人とはそんな仕事に思います。



散文(批評随筆小説等) 神について Copyright グロタン 2017-02-01 22:39:31
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