善ということ 詩論として
グロタン

他のかたの作品をよんでいるとしばしば「善」なる言葉を見かけるので私の考えを書いて見ます。
善は二つのタイプに分かれます。極論ですが、西洋的善と東洋的善。(あくまで言葉上の定義です)
西洋的善は一神教(キリスト教ユダヤ教イスラム教)の神の教えから来てるものです。我が神こそ絶対的真理でありその信仰者は神に選ばれた優れた民族(選民思想)。なので選ばれた者として神と契約し、世界を善に導くために悪と戦う、善悪二元論です。
これはこれで自立心、責任感、勇気など立派な価値観を与えるでしょう。
もう一つは東洋的善。こちらは善とは何かを決定しません。
例えば「電車で老人に席を譲るのは善だ」とします。けれども同情されることを嫌がる老人は結構います、すると「老人に席を譲るのは悪だ」も成り立ちます。
そこでAは善でありかつAは悪だということを同時に認識します。愛も平和も殺人も戦争も善悪を一方に決めつけない。
この善悪無判別をすべての事柄に適用します。そしてこの無判別のカオス状態に私を重ね合わせます。これを私は純粋善と呼ぶのが良いと思います。
これはAかつノットA=矛盾、全てという全てなので絶対性の保証、私と重ねる=自己同一、つまり西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」の善バージョンでしょう。
坂口安吾が「親切には裏切も報酬もない」とかいてますが、つまり親切心で席を譲って逆に怒られ親切心を裏切られたと思っても腹をたててはいけないし、譲ってやったのに「ありがとう」とお礼を言われなくても嫌な気分になってはいけない。そんな感じでしょう。
しかしそうはいっても実際には人間には感情があるので自己を統御出来ません、そもそも絶対という無限性に対し人間の有限性から到底無理です。
そこで東洋的善は行為へはいかず(もちろん二律背反の意識が常に働けば人間として懐の深い人物になれるでしょう)内部生命に向かうことが主軸になると勝手な私見ですが考えます。
ではそこでなにをするかというと瞑想をする。
邪念を捨てて概念を捨てて純粋な集中、純粋な緊張で純粋な善と自己統一する。そうすると心は何を求めるか、
おそらく生そのものの純粋な心地よさ、切なさ、愛しさなのではと私は考えます。
単に理想論なのかもしれませんが、その磁場から詩が歌われてくるものと思うのです。
善については西洋的善と東洋的善の二刀流で自分なりの「善」の定義をしっかりと考えてみるのがいいと思います。


散文(批評随筆小説等) 善ということ 詩論として Copyright グロタン 2017-01-24 21:13:24
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