うみのほね
田中修子

 私は中学を出て、友人の家を転々としながら生きていた。時たま家に帰ったけれど、親は何も言わない。マンションの台所のテーブルやそこらには、たっぷりの食事やおやつが大量に何日もそのまま置かれ、腐って匂いを発している。骸骨のようにやせ細った母親は一日中台所に立って食べきれず片付けきれない量のご飯を作り続け、逆に腹が突き出しこの頃は屈むのも億劫そうな父は、そんな母を酒瓶片手に怒鳴りつけている。
 私が時たま帰って片付けても、片付けても、腐ったご飯が堆積していく。
 だから私は逃げたのだ。

 泊めてくれる友人も、特に親しいわけではなかった。迷惑に思っていた人もいるだろうが、学がなくやる気もない私たちの階層にとって、明日はわが身というのは暗黙の了解だったし、みんな外界に対して無関心なので、自分の生活に一人異質なものが入ってきてもどうでもいいみたいだった。だから泊まるところだけはいつもタダでなんとかなった。 男の子には求められ、そんなに嫌な相手ではなければ交尾みたいなのを、する。
だんだん泊めてくれる知り合いが増えていった。簡単に出来るからか、はじめは男の子から男の子への紹介が多かった。そのお兄さんやお姉さん、その友達。
 中には数年前まで同じような生活だったという人たちもいた。そういう人たちは一様に親切で、一ヶ月くらい泊めてくれたり、期間は短くても食費分をおごってくれたりして、便利だった。けれどみんな疲れた顔をしている。どこか精神のタガが緩んでいるのか、部屋が観葉植物で埋まっていたり、仕事から帰ってくると透明なゴミ袋の中に入って小動物のように丸まって震えていたり、ユニットバスのとてもちいさな浴槽の中に寝具を持ち込んで寝たりしている、そんな人たちが多かった。

 今泊まっているのは真さんという女の人のアパートで、真さんはつい半年前までヒョーリューしていたそうだ。口をはっきり開けずに、言葉をいつもやる気なさげに発音している。背が高く、髪はまっすぐ胸くらいまであって、一重まぶたで目つきが悪い。私はもう一ヶ月半ここで生活している。
 今月は少ししか働かなかった。一日中お弁当の工場で、鍋や釜をごしごし洗う仕事で、その場所には『私たちはお客様の幸せのために キレイを作る』という標語が貼ってあった。私は手首の内側の柔らかい皮を真っ赤に爛れさせながら、スポンジをきらきらした蜘蛛の巣のような泡で埋めて、キレイを作る。
 ……キレイを作りながら痒みに赤く爛れてゆくばかりの手。

 一日中家にいるようになって追いだされるかと思ったけれど、真さんは何も言わなかった。有難いな、なんて思った自分に少し驚く。便利な人、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 真さんはその便利を売っているのだそうで、朝から晩まで近くのコンビニエンスストアで働いている。黄色いアルファベットが輝くファーストフード店で笑顔を売るか、それともコンビニエンスストアで便利を売るかどちらにしようかと迷ったのだけれど、笑顔を売るのと体を売るのはほとんどスレスレなので、便利を売ることにしたと言っていた。
 キレイも便利も、多分よいことや悪いことも、人は作ってお金と引き換えることが出来る。何かを爛れさせながら。それに我慢できない私。我慢できない私をゆるしてくれる真さん。
 真さんと私は陽の当たらない高層マンションの、暗いけれど清潔なワンルームの、唯一の埃みたいに生活している。大昔に乱立建設されたそのマンション群の中でも、特に奥まったところにあり、高速エレベーターを乗り継いでも地上に降りるのに三十分以上かかるので、この階のほとんどの部屋は空っぽだ。吹きすさぶ風のほかは、とても静かだ。ソファベッドとノイズだけが流れるテレビ(でも、一日中つけっぱなしだ)、小さな台所と小さな四角いテーブル、冷蔵庫、真っ白なユニットバス。空っぽの棚もある。これは何、と尋ねたら、珍しいことに少しだけ笑って、好きなホンがあったよ、と言った。ホンって何。
 「こう書くんだ」
 真さんは空中に文字を書く。本。……とうとつに、そうだ、私は本を知っている、と思う。
「思い出した……エホン。絵本、読んでもらった、私。あと、辞書……たくさんことばのある、難しい本とか」
「そう。大昔の秩序だ。今はもう、そんなものないけれど。どうやらわたしたちは、昔の人よりずいぶん頭が悪くなってしまったようだから」
 真さんはさみしげに笑う。

 真さんの朝ごはんは、いつも前日に茹で上げて冷蔵庫に突っ込んでおく、ひからびかけてかたまった蕎麦だ。そこに冷凍のとろろをかけ、時たまウズラの卵をかけ、最後に醤油とマヨネーズをかける。私は真さんの朝ごはんを気に入っている。栄養価もカロリーも高いし、おいしいし、朝ごはんを誰かと一緒に静かに食べられるというのはとても気持ちがいいものだ。真さんはぺろりと食べ終わってから、静かに立ち上がって、そのまま行ってきますも言わずに出て行く。私はだいいたいまたうとうとと眠ってしまう。
目を覚ますと、空っぽの本棚を眺めて、どんな本が入っていたのだろう、真さんはどんな本が好きなんだろう考える。親に、絵本を読んでもらった。そういえば学校で、教科書、も配られた。
 なんでうまく思い出せないのだろう。ほんとうに、頭が悪くなってしまったんだ。
 それでも一生懸命考える。真さんが好きなのは、多分難しいけれど綺麗な文章の本だ。お話を考えるけれど、すぐにこんがらがっておはなし、ってなんなんだか分からなくなり、いつも思考を手放してしまい、ぼんやり優しい時間に身を任す。
時たまこの階層にまでやってきた雲から雨が降る。となりの棟との細い隙間に銀色にひかる雨がしたたり落ちてくると、コップを突き出してその水を集めて飲む。酸性で、舌がぴりぴりする。そんなことをしていると夜の九時くらいに真さんがコンビニエンスストアで要らなくなった期限切れの弁当を二つ、持って帰ってくる。一緒に平らげてから、真さんはきついお酒を飲み、お風呂に入ってノイズしかうつらないテレビをじーっと見る。そういう光景を見ていると、いつも私は眠たくなって、ソファベッドか床で眠ってしまう。気が付くと朝になって、蕎麦を食べる。その繰り返し。

 -その筈だったのだけれど、真さんは昨夜、私が眠っているうちに手首を切って死んでしまった。
 ユニットバスのトイレを使おうとしてドアをあけた。浴槽の数センチを血で埋め、ほとんど千切れかけた手首をやさしくさすっているような格好で、真さんはあたたかなお風呂に浸かっているような表情で死んでいた。
 トイレを済ませてから警察に電話をして、やってきた警察に少しだけ疑われた。遺書も何もないようだ。けれど、自殺する若者と漂流する若者は、いまどきでは珍しくないので、すぐに解放された。
 遺体はドヤドヤと警察が運んで行き、それで、お別れだった。
 真さんの部屋にまだしばらく居てもいいだろうと思ったが、きっと、もうこのマンションのユニットバスのドアを開ける勇気は私にはないことが分かっていた。
 私は高速エレベーターを乗り継いで、そのマンションから去った。

 一緒にいて気持ち良い人をまた探すのは、なんだかとても気力のいることだと、二人の男の人のうちに一日ずつ寝泊りして気付く。会話を楽しむとか、セックスを提供することとか、私には、もうそんな気力は残っていないのだ。真さんの死に魂の一部を持っていかれたような、そんな感じもする。でも、それでもいいのかもしれない。赤い浴槽で眠っている真さんのとなりにいる、私の魂のかけら。目をつむっている真さんによりそって、真さんが目を覚ますのを待っている。あの、静かだった日々が帰ってくるのを待っている。

 私は街をさまよい、ふと異臭がする方へと足をすすめていった。箪笥、冷蔵庫、車、扇風機、仏壇、画面の割れたテレビ……、ありとあらゆる粗大ごみの群がある集積場で寝泊りをするようになった。時間がたつうちに分かったのだけれど、そこは粗大ゴミの集積場というわけではなくて、住民たちが勝手に要らないものを放置していく場所だったのだ。シャーレの中で、少しずつパン屑を食って這い進んでいく粘菌のように、ゴミは増え、勢力を拡大してゆくのだ。たぶんここは、政府からも見放された廃棄階層なのだろう。 
 中に入って少し空間が開けた場所に、誰かがすてた林檎からたくましく育ったのだろうか、ちょうど小さいが味のある林檎の実をつけている木があり、その横にちゃんと屋根が残っていて座席もきれいに残っている車があるのを見つけたのは僥倖だった。
 あらゆるゴミの中からある日には七色のパラソルを見つけて拾い、ある日にはベンチも拾ってきて、そうやってゴミのどまんなかに、少しずつ私の巣を築いていく。誰に頼ることもなく、自分の足でしっかり立っていく感覚。
 雨の日は車で、晴れが続いた日にはパラソルの下で過ごした。
 スーパーはこんな区域の近くはなかったので、コンビニエンスストアで便利を買った。正確には、安いミネラルウォーターと高カロリーのカップラーメン。品物を渡されるときに笑顔を見せられたりすると、少しだけ、胸が痛んだ。便利だけでいいです。笑顔を売るのは、体を売るのとスレスレだから。

 ある日、とても曇っていたので、私は散歩に出た。曇っていると、とてもいたたまれない気持ちになる。晴れでもない、雨でもない。中途半端な私みたい。
少しでも気持ちを良くするために、私はとっておきの白いブラウス(でも、もう襟のところがだいぶ薄汚れている)を着て出かけた。
 一時間くらい歩くと、街はスラムからビジネス街へと劇的な変化を遂げる。この国には、建物が多すぎる。人も。
 街の中には黒や灰色のスーツをきちんと着こなした大人たちが忙しく行き来していて、まるで蟻の巣だった。一人だけ汚れたブラウスでのろのろ歩いている私は鳩のフン、街の染みみたいだ。染みは思う。人工的なビル街は、高慢な表情がきれいだな、と。鋭利な線で繋がれて構成され、不遜な態度で空を切り取っている。
 ふと前に目をやると、薄汚れた灰色のタンクトップに穴だらけのジーンズを履いている男の子がこっちに向かって歩いてきた。夢遊病者のように、ふらついたような足取りで、あたりに視線を漂わせながら。-私みたい。私は立ち止まる。彼も私に気づいて立ち止まる。
 視線が合ったとき、少しだけ死にそうになった。
 彼が何を考えているか全部分かってしまったような、そんな気持ちになったからだ。どんどん体の中に記憶めいたものが流れ込んでくる。
 私とこの人は同じような体験をしている。それが分かる。生きるために誰とでも肌をあわせ、いろいろなものを失っている。そういう、静かで悲しいものだけれど、子供のように底の抜けた純粋さもある目だった。
 私たちは水の中で泳ぐようにゆったりとお互いに近づいて行く。やがて、お互いの息づかいに触れる。

 彼の虹彩は果てしなく暗い色をしていて、私の顔が映っている。その私の顔の中に彼の姿がまた映り、きっと永遠に続いているんだ。
 これは奇跡だ。そうじゃなかったらなんだろう。

 周りが突然静寂に包まれたと思ったら雨が降り出した。黒や灰色の傘の花が開いていく。彼は辺りを見回してビルの裏手に入っていったので、私はそこで待っていた。やがて彼は黄色い傘を持ってきた。開く。
 ためらいなく二人、一本骨の折れた傘の下にいる。
 歩きながら彼の姿を見ると、彼は光るような浅黒い肌で、黒い髪の毛で、綺麗な奥二重で、酷薄そうな薄い唇をしていた。腕には美しく筋肉がついていて、私は惚れ惚れとそれを見た。いくつもの暗い傘の花が私たちを追い越し、通り過ぎていく。私たちは暗く深い海に迷い込んだ黄色の熱帯魚だ。
 彼が立ち止まったのは、ロビーに面する窓が割れ、窓が割れたロビーにはゴミが散乱している、使われていないだろう巨大なビルの前だ。
 エレベーターは動かず、非常階段を登っていく途中、うるさいほどの音響で第九をかけているフロアーもあったし、なぜか水浸しの中で数人がヨガをやっているフロアーもあった。その行為をまじまじと見ると危険らしく、彼は私の肩を抱いて早く進ませる。彼の部屋は7Fの小さな部屋だった。
 部屋は汚かった。コンクリートむき出しの床にはカップラーメンやパンやペットボトルのゴミが散乱していた。服もあちこちに転がっていた。デスクを寄せ集めてその上にマットを敷いたベッドがあった。大きな窓があったが、完全にブラインドで塞がれていた。何本もの橙の蝋燭があり、灯がともされてオレンジの香りが漂っていた。
 私はまずゴミを一箇所に集め、それから服を抱え込んだ。ひどい匂いがしたけれど、自分もこんなものなのだろうと思った。フロアーの給湯室からは温かいお湯が出たし、流しの下の物入れの中には新品の石鹸が幾つもあった。
 私は石鹸の泡を立てながらごしごしと服を洗った。きらきらと泡がたつ、その中には虹色の光。
 清潔な香りのその泡で、ぼろぼろのもうダメな服も洗って、あとで自分の体を拭う時のタオルにした。裸になってさっぱりしたときに彼が来たけれど、私はしたくない気分だし彼もそうだったので、彼の体を拭いてあげた。
 二人ともおかしいほどごそりごそりと垢が出る。彼も私も着るものがなかったから裸のままフロアーを回って日当たりのいい場所に服を干した。ブラインドのないガラス越しに日差しを直に浴びると、面白いくらいに服がカラリとかわいていく。
 少し経つともう、二人でふかふかの服を着ていた。その頃には外に夕闇が下りて、隣のビルの明かりが冷たく灯っていた。お腹が空いたので二人で下まで降りて、ビジネス街の真ん中にある巨大な弁当屋を尋ねた。

 弁当屋は24時間営業で、とてつもなく広く、弁当と人で混み合っている。ハムときゅうりとからしマヨネーズのサンドイッチが私の頭くらいまでのピラミッド型に積み上げられているが、てっぺんは風に削れたように平らだ。他の人が少しずつ取って行ってしまったのだ。私はうやうやしく、サンドイッチのピラミッドを削りとり、長蛇のレジに向かう列に並ぶ。
 彼はトマトサンドとカップ味噌汁を持ったまま、レジを通さないで店の外に出て行く。私は慌てて彼を追いかけた。
「ねえ!お金……」
「この世界で金がまともに通用していると思うのか? もう誰も覚えていないのに。ほら、誰も追いかけてきやしないよ」
店から出てきた私を自動ドアの脇で待っていた彼は寂しそうに笑って言った。

 金がまともに通用しているか、って、どういう、こと?
 彼が何を言っているのか分からなかったけれど、オツリ、お釣り、という言葉が急に頭に閃いた。真さんのところで、本のことを思い出したのと同じように。
 ものには値段があり、それより大きいお金を渡したら、お釣りが帰ってくる。
 それは、いつの時代の話だったか。
 今では持っている金属のコインでも紙幣でも、その中で適当に見繕って渡すだけ。コインを渡して紙幣が返ってくることもある。
 それなら何故、私は皮膚をすり減らしながら働いていたのだろう。もう、よく分からない。
「あなたは昔の人のように頭が良いのね。羨ましいな」
と言った。彼は又、寂しそうに笑った。

 部屋に帰って、盗んできたものをむしゃむしゃと平らげた。かれがトマトサンドに味噌汁を浸して食べていたので、私は自分のハムときゅうりとからしマヨネーズサンドイッチを、横からそっと浸して食べた。

 食べているうちに眠くなるような味だった。

 デスクの上のマットレスに這い上がり、うとうとした。隣に彼が滑り込んできて、お互いがお互いを猫を撫でるようにして眠った。
 朝起きると、二人で部屋を探しに出かけた。私はちゃんとした調理台が欲しかった。そこらじゅうにはびこっている電気ではなくて、古い時代のガスこんろ。青くて熱い火が幻のように立ち上がる、生きている熱。
 私は親に電話をして金をくれと言った。一緒に男の人がいるといったらすんなり納得してくれた。私の親たちも昔そうやって出会ったのだ。
 彼らは私の漂流の終わり祝いに部屋代を確保してくれた。それから数か月分の生活費として、うんとキラキラした、ごえんだまを一枚あげる、といわれた。-ふと違和感を覚えたが、なんだったろう。そうだ、お金。それだけで足りるんだろうか。いや、それでも多いくらいなのかもしれない。「まともに通用していない、誰も覚えていない」お金なのだから。
 彼は大変だな、と思った。昔の人のように頭が良いのだったら、きっとこの世界は気が狂っているように見えるだろう。

 彼は部屋から一冊の本だけ持ってきた。「赤い蝋燭と人魚」というその本を見たとたん、涙が出る。真さん、久しぶり、と私は呟いた。その本からは真さんの匂いがした。聞くと少し前に遠くの街の高層マンションのゴミ捨て場にあったのを持ってきたのだという。まとめられて捨てられていたのだが、この本は特に補修されながらボロボロになるまで読んであって、それなのに捨てられなければならなかった事情を不思議に思って拾ったのだ、と。
 場所を詳しく聞くとそこはまさしく真さんのマンションだった。読んでいくと、最後のページに「もうだめだ。」と書いてあった。その文字を記して少しして、真さんは死んだのだ。
 暗い色彩の海の絵を見ていたら、海の傍で暮らしたい、と強く感じた。彼にそう言うと、彼は頷いて私の手を撫でた。
 街を出るときに電線が鳴っていた。電気の唸りが私たちに別れを告げていた。

 私たちの新しい住処は地下列車を乗り継いで三日ほど行った、海沿いの美しいスラム街にあるアパートだ。美しいというのは、秩序だった無秩序がそこには存在していたからだ。その街には高い高層ビルはなく、煉瓦や木でできている背の低い建物が中心だった。海の方に行けばいくほどぼろぼろの平屋が増えて行く。コンクリートに慣れている私には、そんな有機的な建物は不思議に、そしてあたたかく見えた。

 それに、初めて見る海。なぜ海がほとんど高さの変わらないこちら側にやってこないのか、なぜ海はいつもうねっているのか、よく分からなかった。きっと海の果てには大きな白い壁があって、その向こうの砂漠から人々がその壁を壊そうと大きなハンマーで叩くから、ハンマーの衝撃で海水が大きくうねるのだ。壁を壊せば、砂漠の人々は一瞬で溺れ死んでしまうのに。

 その街に暮らし始めてすぐの頃、薄曇の日に、私は彼と一緒に海まで出かけた。建物が目に見えて低く、まばらになり始めると、道幅は広くなり、車が十台くらい並んで走れそうな道のこちらとあちらに、逆に人々の生活があからさまに浮き出すアパートが出現し出す。埃っぽい風を受けながら、水色や黄色のタオルケットが、一部屋一部屋の前の物干しに揺れている。よくわからない言語でおしゃべりをしながら、女たちがしゃがみ込んでビーズでブレスレットを作っている。古いかたちの自転車に乗った白いシャツの少年が、ものすごい勢いで私たちとすれ違う。
 ゆっくりと手を繋ぎながら、やがて道に海の砂があふれ出しているところまで来る。砂と、土の境界線は実は厳格で、小競り合いを繰り返しながら決してお互いの領土を侵略しすぎない。
 その境界線を私たちはすんなりと踏み越えてしまう。まるで何かから逃亡しきったような気持ちになって、うれしくなって彼の手を振り解いて駆け出した。

 薄曇の空を映して、海は青灰色だった。砂に乗り上げて薄っぺらになってしまった海水は、透明なフィルムのようだ。そのフィルムは、一瞬だけかたまり、そしてすぐに壊れて、もと来たところに戻ってゆく。
 砂のところどころに小さな骨が落ちていた。取り上げてよく見ると、その骨には空気を通すような細かな穴が一面に開いていた。
 「殺された赤ちゃんの骨?」
 私は彼に聞いた。彼は薄っすらと笑って首を降り、
「珊瑚が死んでかたまったんだ」
と答えた。私は海の骨みたいだと思った。
 彼はジーンズに白いシャツのまま、海に入っていき、ぱしゃりと倒れこんだ。私もスカートのまま膝までつかって、彼が波に揺られているのを見ていた。スカートを、まるで生き物のようにゆらゆら躍らせながら、海水は冷たく脚を撫で、まるで最果てみたいだと思った。ふと、意識がとんだ。
 気が付くと彼は私からだいぶ離れたところまで漂っていた。私は叫んだ。最果ての向こうには何があるのだろう。遠くの海を見た。うねりが重なっているのか、水平線は幾重にも歪んで重なっていて、砂漠に住んでいる人の壁なんてありそうになくて、ただ空虚だった。私は叫び続けた。そして彼の手をとり、足を重くして縋りついてくる海から逃げ出した。境界線を越えてはいけないのだ。ずっと走った。街の中心、私たちの住処がある貧しいアパートにたどり着き、体中で叫ぶように息をしている私を、彼は抱きしめる。

 もう二度と、海には行かなかった。

 私たちが生きている貧しい街は、観光客がうろうろしていると身ぐるみはがれる、そういう場所でもある。
 彼は喧嘩がとても強かった。強いというよりは卑怯だったのかもしれない。その街の喧嘩はごく簡単に始まるのだが、ごく簡単に終わるものでもあった。相手が降参を申し出るか、もしくはどちらかが血を流した場合、誰が仲裁に入るでもなく、すんなりと和解が成立する。
 けれど彼はそうしなかった。彼は私の目の前で存分に相手を叩きのめした後、どこにでも転がっているガラス片を取って、相手の腕か足を切り裂いて笑っていた。私はその様子をうっとりと見ていた。彼のその欲望は私自身のものだった。私が最後に、床に伏し血を流して泣き叫ぶ男のズボンから財布を盗る。それだけで、十分生活していける。
 私はこの上なくこの街を、この生活を、愛していた。

 食生活も二人のお気に入りだった。中でも、あの蕎麦は一番頻繁にメニューに登場した。蕎麦を食べるのは朝で、しかも前の夜に茹でて冷蔵庫に突っ込んでおかなければならない。そこにとろろと、ウズラの卵と、醤油とマヨネーズをかけて食べる。
 キラキラの穴のあいた五円玉で無事買った暗い部屋は暮らして一週間で散らかった。備え付けのベッドのマットも少し湿っている。その中で彼と体をくっつけながら、一緒にご飯を食べる。彼と私はお互いに子供になる。お互い、自分のしてほしかったことを相手にしてあげると、自分の中の子供も一緒になって喜ぶのだ。だから私たちは何時間も抱きしめたり、撫でたり、ぶったり、それから仲直りをしたりする。世界が2匹の上にかぶさって潰そうとするような冷たさを味わい、お互いにお互いを護りあうのだ。

 その中で、彼の手首に太い肉芽が盛り上がっているのに気付いた。

 そのときはお互いの身体のすみずみまで、目を瞑って柔らかく撫であうことをしていた。性的な意味はこめないで、柔らかいパンに気をつけてマーガリンを刷り込むときのように、愛情さえも皮膚に塗り込もうとしていた。彼の骨ばった腕をなぞっているときに、てのひらに違和感があり、思わず目を開けてしまった。
 もう何年も前の傷らしく、完全に皮膚の色と同じになっていたが、血を流していたときは相当深いものだったに違いない。私はその傷跡を幾度もさすった。そうしながら彼の目を覗き込むと、そこには暗い影は少しもなかった。温かなお風呂に浸かっているような目をしていた。

 私たちは多分悲しいのも苦しいのも一周して、海岸の砂のようになってしまったのだと思う。もとは珊瑚や貝殻だったのだけれど、今はさらさらして色のない、なんでもないものに。

 ある日、電話が鳴った。どうやったつてで辿り着いたものか、中学校の子からの連絡で、学年単位で同窓会をやるのだという。そこに李もいるんでしょ、と彼女は言う。
 どうやら彼は李という名前で、私は同じ中学校の、おなじ学年だったらしい。ただ単に、彼が中学校に通わなかったというだけで、私たちは人生の多くの時間を無駄にしたのだった。彼は行きたくないと言った。私は行ってはいけないような理由は何もなかったので、参加することにした。
 二人で私が同窓会に着るものを探しに行って、結局いつもビーズ飾りを作っている陽に焼けた老女から、彼女がまだ花びらのように柔らかな皮膚をしていた若いころのとっておきとして着ていた白いふんわりとしたワンピースを譲り受けた。部屋でそのワンピースを着てみると、彼は私の髪を優しく撫でた。
 その日の夜、私たちははじめて混ざった。それは完全に、二人が混ざり合う行為だった。私も彼もとても上手だった。私は彼になり、彼は私になった。ぐるぐるしてよく分からなくなると、優しい水色とピンクが見えた。それははじめマーブル模様だったのだけれど、どんどん細かく砕けて混ざっていった。綺麗な藤色になった。それは夜明けの色と同じだった。いつ始まって、いつ終わったのかもよく分からなかった。気が付くととても静かな顔をして彼が私を見ていた。手をつないだ。温かかった。一緒なら生きられる。
 「李、っていうんだね。……私は、私の名前」
 
 私の名前は、なんという、のだっけ。
 父にも母にも、真さんにもそうして李にも、呼ばれたことがない。
 あなた、お前、君、学籍番号。
 私の名前は、なんというのだっけ。

「……名前、忘れちゃった」
「帰ってきたら、俺が付けてあげる」
 キスをした。

 同窓会の開催場所は、彼と出会った都市の片隅の、今はもう使われていない校舎だった。ビルの何フロアーかを使うものではなく、校舎があって体育館があってグラウンドがある、伝統的だった中学校で、最後の子どもたちであった私たちが卒業し十何年か保存されていたらしい。
 私たちはクラス別に分けられ、使っていた教室へ行った。教室には折り紙の鎖がいくつも垂れ下がっていて、黒板には色とりどりのチョークで「おかえり」と書かれていた。黒板が赤や黄色や白でびっしり埋まるまで、「おかえり」の嵐だった。ただいまぁ、とみんなで言った。同窓会だからみんな晴れ衣装を着ていた。振袖や紋付袴、ウェディングドレスやタキシード。仮面をつけている子たちは元苛められっ子に違いない。教室の隅に固まっていた。
 仮面をつけて怯えているような子たちに、貴様らはたるんでいる、と英語の教師が言った。なんだ、その姿は。そういいながら、華やかな格好の子達も蔑んだ。物理の教師は片端からクラスメイトを殴っていく。私も何発か殴られた。歯が折れた。国語の教師は延々と百人一首を朗読している。李のことを思った。あなたならこの人たちを殺せる? 殺せるだろう。今すぐ来て、殺してやって。
 私は窓の方に体を寄せた。そこにはかつて親しかったかもしれない女の子がいた。彼女は窓の外を指差す。
「綺麗なへび座ね」
 空はもう真っ暗だった。ビルの明かりや、流れていく車のヘッドライト、信号、すべてが輝いて街の線を形作っている。そして、空にはコブラが長々と横たわっている。光の洪水だ。目の周りは赤く、体は橙と青で、一つ一つがちらちらと真っ黒い空を背景に瞬いている。
「へび座がこんなにはっきり見えたのははじめて。今日は何かあるのかしらね」
桜の散ったピンクの着物を着た彼女はそう呟く。雲が晴れて、となりにいるもう一匹の小さなコブラも姿を露にする。壮絶なまでにすべてが輝いている。私は夜の空など確り見たことがなかったのだ。

 先ほどから教室の前方に備え付けられているテレビに、珍しくノイズではなくニュースが映っていた。その隣で性器を出して自慰している体育の教師がにやにやしている。

 まず、たくさんの死体が浮かんだ海の映像が出た。どの死体もどす黒く腫れ上がり、眼球と唇が異様に肥大化して突いたら肉が弾けそうだった。それからサーカスの映像に移った。五段の人間ピラミッドの一番上に立とうとするピンクのチュチュを着た女。顔は白く化粧されている。一番上に立った。足が危うい。そして横に落ちた。カメラは下に落ちていく女を追う。ピラミッドは五段ではなかった。その下に数え切れないほどの人間が段になっていたのだ。恐ろしく高く、女は延々と落ちて行き、カメラが間に合わなくなって、ぐしゃりという音だけが聞こえた。遅れて女の映像が届く。女はねじれた首でこちらを見ていた。そして笑みを浮かべた。それは現実世界のものではない、明らかに何か違う世界のものを見て笑っていたのだ。一瞬あと、血が床にとろとろと溢れ出す。いつまでも広がっている。

 気分が悪くなって下を見ていた。アナウンサーが読み上げる言葉。……ザ……街の路上……ザザ…リー…さんが刺されて死亡しました。現場から数人の青年が立ち去ったのが目撃されています。顔写真が一瞬映し出された。李、だった。
画面がノイズになった。

 私は立ち上がる。足に力が入らない。世界を遠く感じる。精液をあたりに放射し満足げな体育の教師のところまで行って、先ほどのリー……はこの中学校出身の李ではありませんよね? 登校拒否をしていた李ではありませんよね? 体育教師は笑う。私は座り込む。ふわふわのドレスの裾が広がる。違いますよね?

 確かにさっきのはうちの学年の李だったなぁ。

 ぐしゃりという音がした。世界は手のひらに握りつぶされた。
 李は喧嘩が強かった。まるで楽しむように、生きるように、殴られては殴り返し、相手を負かしては、ガラスで相手を切り裂いて笑っていた。そして、今度は彼が切り裂かれたのだ。そのとき、彼はどんな顔をしたのだろう。なぜだか、笑っている顔しか思い出せない。
 泣きたくて口をあけたのに空気が来なくて涙が出なかった。私は水平線を思い出す。私たちはすでに悲しいのも苦しいのも一周して、きれいな薄紫の夜明けの中に、さらさらした海岸の砂のようになってしまったのだ。


散文(批評随筆小説等) うみのほね Copyright 田中修子 2016-12-26 14:29:04縦
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