モラトリアム・オルタネイト
由比良 倖


死にたい。本当は一行だって書きたくない。空っぽの部屋に行きたい。どうなりたいかどうなりたいかどうなりたくないか。パソコンをしばらく脇に置いておくべきだ。もう、必要を感じないし、今までだって、必要としたことなんて無かった。何も変わっちゃいない。書き終わったら(一体いつになったら書き終えることが出来るのか分からないけど)、パソコンをたたんで、それから……、それから、あるだけ、手にはいるだけのお酒を飲みます。そうすることが必要なんです。今の自分を無邪気に否定できたらいい、のに。コーヒーを、吐き気がするまで飲んで、欠落を持病として完全性を志向したい。何もかも捨ててしまえ。捨ててしまうんだ。


不安と同居した覚えはないのにな。壊してしまった絆、世界との仮定的な、は破片となって、ちくちくと内臓に刺さる。あなたしかいないという戯れ言は受け付けない。プラスチックで出来た錠剤を飲む。明るくなれるはずの場所はひどく揺れている。なんだかいろんなものを蹴りたくなる。ただ私は完璧な私になりたいだけ。訳もなく煙草を吹かす。病院に行って「今日は、いえこの頃はあんまり死にたくなくなったんです」と言ったら、「なにか理由として思い当たることはありますか」と聞かれて、そんなの言われても分かるわけ無いので苦しまぎれに「多分、季節のせいじゃないかと思うんですけど」と答えた。「この頃晴れてますからねえ」と便宜的に納得されたけど、私は晴れの日は嫌いだ。(完璧さがあるとするならそれは、ファジーさも含んでいなくてはならない。)寸分の違いも無いものしか許容しないのでは、完全な人間的とは言えないから。恐ろしいことは、特に何もない。うわごとが私を浸蝕していきます。分析することにどんな意味があるのか。意味なんかを引き合いに出す私はやはり分析的な思考傾向、世界の趨勢、くだらない、に囚われてしまっているのか。三秒間の待機で拘束状態はキャンセルされます。三秒後のことをまだ考えていられる程度にあなたは生きています。ノイズをパン屑のように引きちぎってあなた方に手渡したいけれど、ノイズとは時間の存在様式なので、それを引き渡すには、あなたと私は寸時共同体であらねばならない。酒か薬か、どちらかでいい。エフェドリンか、エタノール、どちらか安い方。抗鬱剤を飲んでも未来はちっとも明るくならない。明るい未来が欲しいんじゃない。明るい未来なんか期待してない。話したいことがいっぱいある。はずなのに、私の喋りは誰かの何かを妨害する。書かなくてもいい何かを誰かのためにでもなく、ただ私が私であるためにグラフィカルに叩き付ける。鈍い。何もかもが鈍重に私の意識の外郭を、纏わり付くように攻め、覆いつぶそうとする。私の意識は黒く、固い、固くて滑らかな殻に包まれて、穏やかに波打ち、冷たい光を放っている。中はあたたかい。酒を飲みたい。「多分、季節のせいでしょう」。医者の話は長い。私の心を解析しないで欲しい。そんなの、なんの、ため、にもならない。あらゆる結果には原因がある、としても、それはシステマティックにルール化されたゲームの中でのことだけだ。私の慢性的な不穏に理由なんて無い。もし「この頃つとに死にたくなったんです」と言ったとして、「どうしてでしょう。何か思い当たることはありますか」と聞かれても、苦しまぎれに「季節のせい、でしょうかね」とでも答えるしかないのだ。「季節の変わり目は精神にも不調をきたしやすいですから」とかなんとか言われて、「しばらくゆっくりしてください」で終わりだ。暗い気分は、奥深いものでも何でもないし、そこを掘り下げても、多分インスピレーションなんかには出会えない。ただ、の、感情に過ぎない。ただの、傾向。だから、理由を聞かれるのが嫌で、もう医者には多分死にたいとは言わない。死にたさを括弧付きの死にたさとしてしか受け入れてくれないひとに共感を求めてもしようがない。先生は決して悪い人ではないし、まともだし、好きなひとではあるけど。でも、痛みを訴えるひとに麻酔無しに解剖を施すようなひとは医者とは言えない。空は不安げに光り、鳥は不安げに鳴く。不安を拭えば真新しい懐かしい不安が顔を見せる。誘惑とか逃亡とか、うねり、危険なもの。私はいずれ全てを無くしてしまえるだろう。私の思いは果たされるだろう。私は破綻するだろう。破綻の誘惑に負けてしまうだろうが、私自身の破綻などそのうちに問題にならなくなる、だろう。ゆっくりと水を飲むこと。熱に臥せっている幼子のように。何が私の安寧を脅かすのか、掴めない。風景があまりな透明度を持って、私の網膜をすり抜けて脳髄を直接刺すような感じ。私を脅かすのは、まったく、眠気や堕落ではないのだ。欠落、何も見てはいないのだ。何も見てはいけないのだ。破滅的なものには興味だけでは済まない求心力があるから。自分を保っていられない。燃え尽きてしまいたい衝動。ひとつの有機体として、すべてを燃やし尽くしてしまう。


そのようなものを、ノイズという。ここが私の故郷にして墓場。空をきれいに磨く。もう、ここに帰ってくることもないだろうし、でもここが私の場所であったという事実を美しく切り取って、記憶の中で瞬時、永久保存する。いろんなものに、さようならを言いたい。そして、私がここに生きていた事実を、無かったことにしたい。いつか私の思い出も風化する、それまで私は生きていなくてはならない。私の持ち物は全て歴史的に抹消されなくてはならない。その多くは私の手によってでなくてはならない。私、ええ、白痴になります。一回り小さい私を手に入れます。そのために私は私を酷使したい。いつか簡単に死ぬことが出来るその日まで。生をあきらめてしまえるその日まで。体をたしかめる。ひどく肩が凝っている。とても、煙草の煙を肺にまで入れる気にはならない。中途半端な私。自己嫌悪にはいつも陥っている。自分の住む場所を簡潔にするのが好きだし、得意だ。思い出は軽い、軽さが好き。いくら自己増殖してもそれは単なる情報に過ぎないから。情報に過ぎないものを物質に変換する場所を私は周到に整備しておくから、思い出に殺されないように。春になったら私はサナギになります。出来れば何も見ずに生きたい。何も持たずに生きたい。なるたけ所属せずに生きたい。


心残りと言うほどのもの、特にない。記憶の穴蔵。見えないことを楽しむ、楽しめない、心臓を止めることの出来る場所、そこで私は名前を捨てて、首から下、あるいは肩から上、を切り落とす。ただ、生きているだけ。食べるのも、この頃嫌になってきた。食欲なんか無くなって欲しい。お腹が減らないまま、餓死してしまいたい。食中毒にかかって死んでしまいたい。予期せぬ出来事によって、私がもうじき死ぬのなら、全てにあきらめがつくのに。進んで近視になって、難聴になるのに。廃人になるのに。廃人になりたいのに。もはや私には何もない気がする。どうとでもなれだ。どうとでもなれ。寂しき円転。私は一体何者なんだ。全てを思い出にしてしまいたい。思い出の集まる場所は、無へと続く奈落だといい。どこまでも思い出たちは落っこちていって、誰からも感知されないならいい。


死にたい。本当は一行だって書きたくない。あ、あ、あ、無価値な私が今日も一日、生きるのだ、過ぎていくのだ、と思うと、心がささくれ立って、そして嫌な夢ばかり見る。本当は、私はとても嫌なやつだから、多分犯罪者なのに、それを隠して生きてるから。早く一億年くらい経って欲しい。書きたくないといいながら書いてる。でももう書けません。私には何も出来ません。薬をください。


近所でネコが死んだと聞いて、
喪服を用意しなければならなかった
霊柩車が事故を起こして、
ネコは正しく納棺されなかったという

(君の母さんはとても苦しんでるんだ
 と、青牛は言った)

どこまでも下っていくダストホール、絡み合う黒々とした太いパイプ。ところどころ、奥の方で発光している。何かが燃えているのか、あるいは人工的な光なのか。僕は、目まいを感じながら、吹き上げてくる生臭い風を、それでもかわすことが出来ない。ここは「僕にふさわしい場所」なのだ。

「あなたは何がしたいのですか。私はあなたが有能だというのはわかります。しかしあなたはあなたの時間を、一体何に使うことを望むのですか? 無為だなんて、そんな後付のジョークみたいなこと言わないでください。あなたに出来ることは、少なくありません。また、あなたが出来ることはそう多くありません。あなたは何がしたいのですか。あなたは詩人ですか? 随分怠惰な詩人がいたものです。あなたは一体、何がしたいのですか」
「わからない。君と会話がしたい。君は率直だし、何をすべきかを心得ている。でも、僕はわからない。僕は、楽しくなりたいんだ。いい詩を書くことが、楽しいことなんだけれど、自分が心底この世界には属してないと感じたとき、僕は、この世界を深く知ろうという欲求をまるで無くしてしまうんだ。世界とではなく、あるいは社会とではなく、僕は、人間と繋がりたいんだと思う。でも、それは逃げの常套句なのかも知れない。僕はもっとこの世界に馴染む努力をすべきなのかもしれない。それは世界の問題ではなく、多分、僕の問題なのだから。僕は、知りたいと思う。世界は、限定されたものではなく、無限なものであるのなら、少なくとも想像できる限りには、僕にはそれを検証すべき責務があるような気もするよ。楽しい話がしたいんだ。ただ。楽しい話がしたいんだ。でも、僕の言葉は通じているのかな、便宜的に選ばれた言葉の向こうにあるものを、果たして僕は正確に把握できるだろうか、また、そうする理由はあるだろうか。輪郭をなぞり合っているに過ぎないのに、僕たちは、それをわかり合っているということが出来るのだろうか。ああ、僕はハイになりたい。ハイになりたいんだ」

 江井ノさんから電話がかかってきたのは、僕が、今日のノルマの分、毎日新聞の紙面一面、それから村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」の二巻をちょうど読み終えようとしていたところだった。情報が僕にもたらす刺激は少ない。二面、三面になるほど、刺激は稀薄となり、それは空気中のダストのように清浄すべきアレルギーのように僕の頭に棲み着く。しかし、僕はそれなりに大きな街で生きる社会人、つまりニートではない人間として、必要、本当に最低限の情報だけを自分の海馬を通すことにしているのだ。それには、よくわからない、必然性、強迫性のようなものが介在している。「解放しなさい」江井ノさんは囁いた。僕に足りないのは衝動性だと江井ノさんは言った。衝動性ならありすぎるくらいあります、それはどういうものですか、と僕が言うと、自分を解放することだよ、と彼女は答えた。「君は少し、自分を崩すのがいいんじゃないかと思う。いくら壊れたって構わないんだよ。大事な部分は、いつまでたっても君のままだよ、コウくん」

 穏謐な灰色の建物の裏を、いつだか歩いていると、とがりネズミに会った。
「君が今まで殺してきた人たちの名前を、僕はみんな列挙できる」とネズミは言った。
僕は誰ひとりとして殺してはいない。
「君が否定したとしても、君のオウムはそれを知っている。オウムは君の真似をする、僕の前で、君のやったことを随分悲惨に再現してくれた。君には好意が持てない」
「それでも多分、そのオウムは嘘付きなんだ。僕の真後ろにいて、いつも意味の分からないことばかりを言っていた、あのオウムだろう?」
「意味が分からないんじゃない。君が間違っていたから、オウムもまた、変貌せざるを得なかったんだ。一体、気の狂った人間に、どんな正統的な論理が通じるというだろう」

「それでもなお」と彼は言う。「幸せを強要するのは間違ったことだ。あなたが不幸であるのは全く間違いないことだ。あなた自身がそういうんだから、間違いないね?」
なんだか全ての人間が僕を避けているみたいだ。実際にそうなんだから、僕は混乱している。明日、明後日?明明後日ぐらいのことになると、もう全然分からないや。

「君もしかして怒ってる」
「違う。ただ、いて欲しくないだけ」
「でも君を助けられるのはもしかすると僕だけだ」
「そのときは死ぬの」
「僕はただ、」
「そういうのやめて」

世界なんて潰れてしまえばいいと言った十六の君に対して、僕はただ哀しむことしか出来なかった。今なら、少しだけ、僕は君にも賛同してあげられたと思うのに。孤独を忘れてはいけない。独りきりの静寂の中に普遍はあるのだから。

自殺遺伝子発動中、北から南へ走る悲鳴、底なしだって、私が生んだけだものを、
これからの私は潰しにかからなくてはならない、だってそれが、
半生なんだもの。

よく出来たひからびた嘘。私こんなだけど私わたしを感じたい。私の許容量にぎりぎり入るくらいにしてください。分からない話はしないでください。

「はい、ここに真理がありますよ。激しい苦痛を伴いますが」


一箱煙草を吸い終える間に、私はせわしなく八本の指を動かし続けている。スペースキーを押す親指を入れると九本か。煙草に含まれるタールはとても微細な粒子で出来ているので、パソコンの内部にまで浸入し、回線の接触不良を起こすこともあるという。私は文章の推敲をしない。おまけに論理的な思考や、文章の構成力を持ち合わせない。私はコーヒーを飲んで、それを文章に変換させるための機械だ。四角いディスプレイの他、私は部屋の外で宇宙が分断されていても、別に構わない。私は人との相違を単純に勝っているとか劣っているなどの観点から見ることはしたくない。文章を書くということが快感への架け橋として、すでに条件化されている。気持ちいいから書く。自傷と同じだ。実際今は、左手にギター用に伸ばした右手の爪を立てながら書いている。酸素濃度が低い。私は密室が好きなんだ。こうやって文章、自分がまさに書いている文章にまみれてときを過ごすことは、私を自己完結的で、矛盾のない柔らかな世界に閉じこめてくれる。私は、病的に几帳面だ。それは認める。完璧主義者だ。だけど、完璧など無理で、無理なのだから、それなら、最初から何もしたくない、という、程度の低い完璧主義者だ。完璧な私があるとしても、それは他になんらの優位性を示さない。ただ単純に私が私であることを有意な方法で示すことが出来るというだけだ。エゴが殻の狭い隙間からあふれ出し、誰にでもそうと見えるような形をとる空間内。快楽を文章や絵や数式、思想、創作物に変換できる人は幸せだ。形にするまでは快楽は本質的に刹那的なもの、残像の幻覚みたいなものだから。

ハイになれ。ハイになるんだ。

いいかい。心のなかで、誰かに対して申し訳なく思っていても、そのことは君に対して何の行動的規範も示さない。ただ君自身が明るい気分になって、せいぜい周りの人たちまでを暗雲のような気分に落ち込ませないことは大切だと思う。ここにあるのは、Joy Division、ギター、パソコン、ストーブ、そして何百冊かの本。それだけだ。煙草とカフェインを体にしみ込ませて、ただ、感覚をなぞるようにして書いている。僕は自分がワードプロセッサーの一部として上手く指が機能していることに快感を感じるのだ。他に何がいる?人間を他の動物と分けるもの。人間だけがデフォルト状態で不安なのだ。僕は毎朝起きる度に欠落を実感している。それは夜になっても埋め合わされることがない。朝僕を支配する空虚感が次の行動へと僕を駆り立てることないからだ。ただ、行動することだ。よく、言われているよね。とりあえず行動してみたら? とりあえず行動できる人は、人の助けなんていらない。僕たちのイグニッションキーは壊れているか、鍵がない。だから、待つともなく、結局は怠惰という状態で一日日頃を過ごす以外に選択肢なんて無かったのだ。人間にもともと備わっているものがそれほど変わらないという意見には賛同しますが、それをうまく使いこなす能力には大きな隔たりがあって、それは簡単に埋め合わせられるものではないと思います。

僕はただ、強迫的な何かにせき立てられて生きているだけ。目標? そんなものは持ったことがない。いつも不和を感じている。欠落を感じている。それを正そうと、いつも疲れ切って泣きたくなるまで、自分のエゴに追い立てられている。立ち向かうには(何に?)生きて行くには、過剰になるしか無いんだ。声がかれて喉から血が出るまで叫ばなければ、誰も僕がいたことにさえ気付かない。それから多分、まともな人たちは僕を病院に放り込むだろう。それでなければ路上に放り出すだろう。それでも僕が生きなければならないとしたら、せめて死ぬときぐらいは笑ってやるさ。意識が残っていればの話だけど。僕は、ただ認めて欲しいだけなんだ。でも、僕がひとに与えられるものなんてあるだろうか? 僕に出来るのはただ無様だとしても生き続けることだけではないだろうか。ひとになにか影響を与えたいなんて、それこそ傲慢な考えなのではないだろうか。


あー、あー、残るのは、単純な信仰。それだけですよ。無意味で無駄、そしてあさましくもみっともない宗教的恍惚。それに従うだけ。知的っぽいものに取り憑かれたひとは知的っぽく見え、知的じゃないものに取り憑かれたひとは知的じゃないように見える。それだけです。こう書いていますけど、別に、楽しいわけでもないです。どうしてもいいたいことがあるので書きますが「死にたいやつは死ね」というのは、最悪に気持ち悪い言葉です。言われなくても別に、死にますし、精神的な苦痛によって死にたいと思っているひとに向かって「だったら死ね」というのは、満身創痍で血だらけのひとの心をもう一度切りつけるようなものです。心が弱いのではなく傷ついているのだということがどうしてわからないのでしょうか。「心が弱いから自殺なんかするんだ」という言葉が理解出来ません。弱い?弱いだって?あんたは強いの?このまま生きててもまたあんたたちと過ごさなきゃならないと思うと絶望するんですけど。感情に流された文を書いていることを承知で書きますが、自殺したいほどの絶望の恐ろしさをあなたたちは知っているのですか?知らないからそんなことを平気で言える。あなたたちには感情がないのですか?私は苦しみを知っている。私は苦しみを知っているぞ。苦しみを、悲しみを。あなたたちは何も知らないんだ。知っているふりをしているだけだ。知識を振りかざして何になる。それがそんなに偉いか。絶望的なまでに。私にあるのはこの感情だけだ。私は冷めています。冷めていますが、美しいものを感じることは出来ます。狂おしいほどに。狂おしいほどに。みんな、みんな、どうでもいいことを書いている。私も含めて。ただひとつどうでもよくないことを書くなら、みんなどうでもいいんだ、ってことくらいです。感情、感情、感情、それを言葉にして何になりますか?死ぬまでみんなオナニーをし続けます。最後に残るのは、空っぽ、時計の音、カラン、それだけです。どうでもよくないことを、何とか詩にしたい。詩に。根源的なものが、必ずあるはずです。おおげさな言葉でまとめあげる必要なんて全くないものが。詩も、批評も、死ぬまでの暇つぶしです。暇つぶしですよ。子供に語れないものが、大人に語れるとでも?馬鹿。

傷口は、半分だけ縫い合わされました。世界は、あいかわらず分からないものでした。

歩きました。
見ました。
たとえばそれをきれいと思ったり。
いなくなったものが。
いなくなったものが、ああ、(なにもかもがどっかにいってさ)、
どっかにいってさ、
わたしは心だけで歩いていました。

好きなものを好き、嫌いなものを嫌い、と言いながら、老いていくのですよ。死ぬ前には多分世界の全てを好きになる。

いっぱい、いっぱい食べる。どうせみんな出てしまうものだから、味さえわかればいい。ジャムを掬って食べる。ジャムを食べる。私は病名をもらう。私はそうですかと言って入院する。

「僕は、13歳の頃から詩を書いている。いや、わからないな。どうだっていい。ただ僕は魅せられ続けた。それは、死者の目に映るものだったが、僕には見えてしまった。途端、僕は無気力になった」

私は疲れた。生きるのは無意味だと思った。無意味であったが輝きは輝き、それはどういう意味だろう、と考えた。無意味、無意味、輝き、輝き。私は形あるものが壊れるのを悲しんだ。

私はギターの弦を張り替えている。死は、もうそばに来ているから。

無言であることが好ましい。詩から無言が。そういう詩が、理想だ。

私は懐かしむ。吃りながらの饒舌にひそむ、静寂を。

感じるひとも、感じないひとも、同類だ。

飽きるというのはいいことだ。全てにあきればやっと。見えるよ。
空白。とか

老いる、老いる、老いるよ。

(エズミの詩)
「ただ、生きるだけ。
 生きろ、と言われるの。
 たとえばそれは、母が言うの。
 でもそれは、私の生きるとは違うの。

 あたらしい世界は老いて生まれました。
 あたらしい世界は老いて生まれました。

 ただ、ね。
 ただ生きるだけだとおもうの。
 押しつけがましくもなく。

 生きるだけだと思うの。

 レコードを回すの。
 ぐる、ぐる、ぐるー。

 買ったCDを並べてなでるの。

 日がくれるの。

 ことばって、

 いちじるしい。

 もう憎めないよ。
 天国をみた。
 そこは静かだった。
 静かだった。
 公園のようだった。
 目をこすると。
 天国のようにも公園のようにも見えたの。
 地獄をみた。
 そこではひとたちがはなしをしていて、
 わたしは耳を塞ぐために、
 あー、と言った。
 そこは寝覚めのわるい宇宙のようで。
 でもきれいだったの。
 とても、とても。
 きれいだったの。

 消えると思ったの。
 きれいだと思ったの。
 ほんとうに、
 きれいだと思ったの。
 かけねなしにね。

 それを忘れちゃうなら、
 あたしはあたしはみんななみだになって、
 きえちゃえ、
 と思ったの」

私には死ぬ権利がある。
だけど死なない。
ギターを弾くからね。
最後のときまで。


ひどく受動的。何でも書けそうで、でも何にも書けやしないんだ。書くなんてのは、そのうちロボットにでも出来るに決まっているし、それなりの文章は少し頭が変であれば、いつも通りの会話をただタイピングすればいくらでも書ける。あーあ、冷蔵庫に鳥なんか入っていません。コーヒー豆を挽いて抽出して、それをまた濃縮してインスタントコーヒーを作るみたいに、言葉の種を植えて、それをいっぱい茂らせて、刈ってぎゅーぎゅー絞って、言葉がバケツに何杯分も出てきたところでそれを乾燥させて、言葉の苦いエキスが出来ないかな。言葉の素。インスタントだから、湯で戻しても、あんまり美味くないけど。で、僕の中にあるのは多分、インスタント的な言葉で、自然発生的な日本語、というのは、あまり読んで(蓄えられて)いないと思うのです。書いたものの、フレーバーはそれなりでも、カフェインレス。で、カフェインみたいな刺激を言葉に添加しようと思うのだけれど、それも何か、どれも味気なくてさ。自然発生的、というのは、つまり脳内麻薬みたいなので、言語回路と脳内麻薬がびかびか相互作用し合って、奇跡的に生まれるのだと思うのだけれど、そんな文章を書けるひとってあまりいない。大体は興奮してるけど全然書けていないか、書けているけど全然興奮していない。凝ってるけど味気ないか、もしくは気合いが入っているけど不味い。

無感動です。ずっと雨の音ばかりを聞いていて、それが無駄なことにも思えないんです。もう、僕が死にたいのは分かったから、せめてそれを忘れさせてよ、と自分に向かって。でも僕はヒューマニティに溢れてはいないので、快活な僕を僕の奴隷とする。煙草を吸うために煙草を吸う。完全に打ちのめされてしまうまで、自分を試す。例えば、あるだけの薬を飲み、あるだけの煙草を吸って、気を失うまで起きていて、あるだけのお金を使って、いや違うな、退屈なんじゃないんです、もちろんそんなんじゃなくて、自分がへらぺったい壁画みたいで、「例えば僕はこうで」「例えばあれが僕で」が判読し難い記号のように続いて、結局のところ僕はとっくに死んでいるような感じなんです。何を体験しても、それを仮定の僕が持ち去ってしまう。一人称が指し示すものが表層上は代わったとして、それがある主体に依拠している限り、別に僕が君で私でも、根本的な違いなんてない。だから本当は、僕が生きようが死のうが、どちらでもよくて、僕が知ろうが知るまいが、感動しようが絶望しようが、それは本当にどうだっていいことなのだ。世界にとって僕がどうだとか、世界がどうあるべきだとか、倫理的な面から書けるなんてあり得ない。


いまの私は文章を書くためだけに暫定的に存在する、仮の姿であるのだ、と思う。ことにする。

音楽で心が共有されている感覚は気持ちいい。一人一人に、それぞれの暮らし、部屋があって、一人一人の世界がある。僕の定型化された脳神経の繋がりの中にも、新たな集落が出来る。
人の部屋を見るのが好きだ。世界観が視覚的に、また自覚的に、置かれているものの一つ一つが個人の精神のいろを映し出している。特に、煙草を吸う人と同じ部屋にいるのが好きだ。煙草を吸って、栓もないことを喋る緩やかな時間。楽しいことを貪欲に(傍目には無慾に見えても)あるいは偏執的なほどに、自分の個人的な楽しみを追求する人が、僕は好きだ。
馴れ合い的な付き合い方は嫌い。思いもしないことを言ってしまって、疲れるだけだ。笑顔はひとに伝えるためのものであって、本当に楽しいとき、私は笑わない。

「死んだら終わりじゃん」
「そうだね。はは」
「別に死にたくも生きたくもないけどね。生きたくもないのに生きてるし、死にたくもないのに死ぬのな」
「ジェフ・ベック聴こうぜ」
「聴かない。それよりヘロインは? もう切れかけてんだけど」
「下にある。とか言って欲しい? バロウズ気取りもいいけどさ、私はもっと概念的な快感を得たいなって最近思うんだ」
「何それ。快感に概念なんてあるの?」
「んー、私ね、香水とCDのコレクターになろうと思うんだ」
「お前すごいヘビースモーカーじゃん。嗅覚とかやられてるぜ」
「だからね。概念的にセンシティブなのよ。文脈的に多感なの」

死ぬ、って思うと、ときどきぞっとしますね。昔の人が、永続性を求めてミイラづくりに精を出したり、あの世での極楽を信じて念仏を一心に唱えたりした気分は何となく分かります。あと、は例えば子孫を残したいっていう気持ち。儚い儚い永続への物質的渇望。
今の課題は、鬱を軽減させること。しばしば、死にたいくらい暗い気持ちになる。どうしてなのか、それは多分永遠に分からないだろうと思うけど、僕は、暗い暗い感情を引き摺って生きている。外出先で気分が悪くなって、薬が無い時なんて最悪だ。そこが高いところなら飛び降りてぐちゃぐちゃになりたくなる。やりたいことをやればいいよ。鬱が続くと、精神が深く疲弊していきます。今もまるで深い暗色の靄の中にいるような気分なんですけど。はっきり言って何もしたくない。自然な意欲が湧いてきたらいいと思うんですけどね。大量のブラックコーヒーを飲むか、風邪薬をたくさん飲むかして、どうにかしのいでいます。あと、煙草。本当、何しに生きてるんだろうと思います。

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iPodがあればどこにだって行けるさ。いずれ、ですね、例えばマトリックスとか攻殻機動隊みたいに、みんな延髄プラグが付いてて、そこから情報を取り込めるようになればいいよね、人類が、意識だけで世界と繋がれる。意識、世界が電気信号によって密接に繋がり合う、人と人、世界と世界が。
世界は全て記号の連なりに過ぎない、記号の連なりは、すなわち世界。記号の海の中をどこまでも遊泳していけばいい。それが、もっと洗煉化されたシステムによって誰にでも開放されるなら、そう、宇宙的な感覚がそのままに共有されるようになったら、僕たちの、進化の第一段階は、多分、クリアしたと言っていいんだと思う。ひとりひとりが完全に一細胞としての動きに準ずるなら、地球一つを大きな一人格として見なすことも出来る、なんて、誰かが言ってたなって、自分の考えではないのですけど。そういうのって面白いと思う。隣にいる人とも、ほんの少しも、痛みも、悲しみも、味も、ギターの良さも、全然伝わらなくて、でも、それを伝えようとあがく、その苦しみが、人間の人間らしさなのかもしれなくて、でも、伝えたいことをケーブルで繋いでぽんと伝えられたらどんなに、いいだろう、って思う。まあ、そうすると、逆に誰かが電気ギターをあまり好まない理由も、「言葉もいらないくらいに如実に」伝わってくるのかもしれなくて、そうすると、僕という一存在って、一体何?って感じになるよね。みんなで繋がり合ったら、好き、と嫌いがぐちゃぐちゃになって、結局は灰色地帯に、なんとなーくな感じで収まってしまうのかも知れない。好きでも、嫌いでも、ないような、あるような、多重人格、優柔不断、どこにでも飛ぶことが出来るのに、目的地が決まらなくて、結局どこにも辿り着くことは出来ないのかも。いや、それは無いな。人間にとっての光は、圧倒的に、「好き」で満ち足りたものだと思うし、きっとそのスペースの中ではみながみなを好きになって、新しい眩い都市が産まれるよ。そこにはまた雨も降るし、悲しみもあるだろうな。僕はその虹の中に笑いながら融けてしまいたい。

自殺したい。
考え方、の問題?
単純なこと。単純に生きること。いつもよりずっと辛い夜にはいつもよりずっとたくさんの薬を飲んで眠ればいい。最悪の朝しか来ないとしてもね。最悪の朝は最悪の過ごし方をして、死にたいと思えば死ねばいい。死にたくないならまた薬を飲んで、そうしているうちにいつか体がどうかなるか、薬がなくなるか、多分、そのどっちかでのっぴきならぬ状況に陥るんだろう。簡単なことじゃない? Who cares? 煙草を一晩で一箱、大体吸う。ふん、馬鹿みたい、もし僕が喉頭ガンで死なないとしたら、もし、僕が大動脈瘤なんかでころりと死んだりしたら、本当、馬鹿みたいだ。僕は、もっと、苦しんで、血を吐くようにギターを弾いて、そんで死ぬんだ。文章だってたくさん書いて、小説家になるんだ。一度しかない(本当に?)人生を、無感覚でだけは過ごしたくない。絶対に。静かな眠りは、死んだあとと、生まれる前に十分すぎるくらい取るのだから。古典的な信仰だよ。
感情的に書いているのは、すごく、死にたくなったからです。死ねばいいじゃん遺伝子(多分、ある)がぶんぶん呻り始めたので、抵抗しているんです。僕の中の生の部分は、僕の早く死んでしまおうとする部分より、ずっと肉体的で、そして、見ようによっては、すごく、醜い。それは、個人的で、個人的と言うことはつまり、理屈で片付くようなきっぱりした輪郭を持たないってことだから。僕は、個人的に、電気ギターが好きで、コンピュータを使ってしか作れない音楽もすごくいいなって思い始めてる。
薬を追加します。午前五時。多分僕は誰か(それは「誰でもない誰か?」)のとなりにいないと自分を見失ってしまうのだと思う。遊園地の中でひとりぼっちになってしまった子供が、遊具よりも空とか地面ばかりを見ているみたいに。怖い。


……「僕たちはこれからどうなるんだろう」
 特に理由もなく、謂わば彼女と出会ったときから続く挨拶のように、僕はみやちゃんに訊いていることがある。そう言うとき、彼女はもう最初から答えが決まっているみたいに(しかもそれが毎回違う答えなのだ)、例えば、この前のときはこう答えた。
「私たちはね、月に行ってお花屋を開くの」
 みやちゃんはゲームの画面に魅入っていた。そして、頭ではゲームのことを考えながら、同時にまるで文章がディスプレイに書かれているように、明瞭だけど平坦な声で、
「私たちは、初めて、地に足の着いてない堅気の商売人になるの」
 画面の中では彼女の乗った飛行機が、大きな敵船の吐き出してくる、赤や青の入り交じった色の弾を、軽快に躱していた。まるで花火の中を舞う羽虫みたいだ。彼女はピンク色のコントローラーをかちゃかちゃ言わせながら、
「ねえ、宇宙に行きたいとか考えたことない?」
 と、少し調子を落として言った。
「ある。けど具体的に考えたことはないよ」
「そうよね」
 と言ってみやちゃんは、コントローラーを床に投げた。みやちゃんの乗った飛行機が軽快な音を立てて爆発する。彼女はちっと舌打ちをして、
「宇宙のいいところはね、…、それは今日と明日の区別が無いところね」
「へえ」
「人間や地上を基準にしていたら、ともすれば私たちは人間的だったり、原始的なものを前にして、それが人間にとって納得しやすいという理由だけで、よく考えもせずに敬虔になってしまいがちだと思うの。太陽や海が特別な意味を持っていたり、ね」
 みやちゃんは伸びをして、ディスプレイの画面はそのままにベッドまで歩いていって、どさりと、わざと崩れ落ちるように俯せになった。それから首だけを回して僕を見て、
「君の悩みだって、全部人間的なものだぜ。まったく愛おしいね」
 と特に言外の意味を含ませてる様子でもなく呟いた。
 僕は机の上にペーパーバックを拡げていたけれど、もうずっと上の空だった。例えば、宇宙と称される、ある概念がある場合、それを人間が知るということは、宇宙というある種の概念を、人間的な言語に書き換えるだけのことだ。知るという行為の、その渦中にある人は、宇宙という概念を知ることは、とても素晴らしいことだと、まるで全てを知ったかのような錯覚に陥っていて、これ以上ない真実に近付いたつもりでいる。でも実際に知っていることは、自分がそのような感覚を持ちうる存在であるというそれだけのことだ。
 みやちゃんは、睡い、と言って、静かになった。日が傾き掛けていた。太陽が沈んだと言うよりは、太陽の光が弱々しくなるような陰り方だった。ゲームの画面は相変わらず人工的にちかちかと光っていて、いろんな色の泡が目まぐるしく弾けるようなBGMが流れていた。僕は急に床が冷たくなったような気がして、椅子の上に足を上げて膝を抱えた。……

11
……Kの声が聞こえた。でも、その声は先ほどのように近くからではなく、何か曲がりくねった迷路を抜けてきたような、奇妙なくぐもった響きを持っていた。
 それから、Kがまた二、三言葉を言ったような気がする。心がきしむような音を立てた。そのぎしぎしいう音は、段々、心全体の空気が少しずつ抜かれるかのように、か細くなっていき、やがて、消えた。それから、僕の耳には、外の風の音が戻ってきた。そして、今さらながらに僕は、両手の指をこすり合わせ(これは、子供のときからの、癖だ)、無意識のうちにロック音楽を流しっぱなしにしていたことに気付く。ドアーズだ。ジム・モリスンもまた、どこか遠い場所で歌っていた。そこはまた、僕がいずれ戻らざるを得ない場所でもあるのだ。……

12
「どうしても駄目なひともいるんだって。でも、みんなすごく善良だよね。みんな。だってさ、普通、ネットカフェとかに住むくらいなら犯罪犯してでも楽にやろうと思わない? でも、やらない。それってさ、すごい善良だと思う」
「善良、っていうか、もっと他にすることあるだろ。お前な、そんな奴に生きる価値なんてないね」
「なんで、ねえ、それって危ない思想だと思う」
「世の中そうなってんの」
「世の中なんか知らないって。それよりさ…」
「それよりじゃない。お前は出来ることを何一つしようとしない」
「やってるよ」
「何? 俺と話すことか。あは、はははは、ばっかじゃねえの、お前」
「大変なんだよ」
「何もせずに大変とかいうな」
「何も出来ないけど大変なの」
「なまけんな。甘えんな」
「知らないからだろ!……じゃあさ、仕事をしてないひととか、精神的にどうかしてるやつとは話も出来ないわけ?」
「いや、する意味ねーし」
「……あのなぁ、さっきも言ってたけど、価値とか意味って何? お前はなんで生きてるわけ? 楽しいことをしたいんじゃないの? 楽しい音楽をしたいんじゃないの? 違うの? そりゃさ、俺は甘えてるよ。でも、お前とも仲良くしたいし、こんな、けんかみたいなこと言いたくて電話したんじゃないよ」
「だーからさ、お前が仕事して自分の金でギター買ったら、一緒に会ってバンドもしてやるって言ってんじゃん」
「今は?」
「今は無理」
「なんで?」
「お前と話してても無意味だ。ほんと、お前全然変わってない。変わらなさすぎ。俺は市民としてまじめにやってんの」
「だから意味って何? 俺はどんなひととでも、そのひとの仕事がどうだとか、関係ないと思うんだけど。市民って何? 法律を守ってる人のこと? だったら俺も市民だよ」
「うっせー、ニート」
「だから、俺は、その、ひと、そのものが大事だと思ってるの。ニートだとか、例えば、犯罪者でも。音楽の前では平等でしょう。俺は、ひとが好きなの。お前のことも」
「あー、はいはい、かっこいいです。かっこいいですよ。そうやって勝手に好きになってオナニーしてなさい」
「いや、俺、お前ではちょっと…」
「っちがうわ! お前の生活自体がオナニーだって。自己完結してるって言ったの!」
「オナニーを馬鹿にすんな! お前だってオナニーするくせに。俺はな、めっちゃ普段めっちゃ鬱だけど、幸福を感じることも結構あるの。まあ、甘えてるとは思うけど。でも、自分の世界で幸福になって何が悪い?」
「あのさー、じゃ、山に行け。山に。ひとを巻き込むな。ていうか電話するな」
「・・・俺さ、本当に・・・」
「そういうことはさー、ひとりでやってくれ。お前、なんか間違ってるわ」
「はぁ? だから何が?」
「もういい。お前のやってることは社会では通用しないってこと。電話代さえ無駄だわ、じゃ」
「ていうか、俺がかけたんだけど」
「どうせ親のお金でしょう? じゃあひとりでオナニー続けてくださいー」(ぷつっ)
「……」

13
……「社会なんてくだらないよ。消えてしまえ」
 達阿木くんは木馬にまたがってゆらゆら揺れながらそう言った。僕は社会が消えるってことは、ここで僕が達阿木くんを殺すことだろうか、それとも手をつないで家を飛び出して、どこか知らない山の奥の未踏の地にでも行って、自然生活を営むことだろうか、ハチミツ取りとかするんだろうか、きっと僕は肌が弱いので(この「ので」というのがどこか社会的なのは文章を伝達くさくするから)二の腕とかまでぶくぶくになってしまうだろう、そしたらオロナインを買いに行かなくちゃ、自然の異物感がたっぷりなローヤルゼリーめいたものを、木に成った瓶に詰めて、社会疎外された、第②セクトの宇宙人みたいに、たどたどしい妙に蹴躓いたアクセントのあるセールストークで、世田谷在住のおばさまあたりに売りに行くのだ。世田谷は世界と田んぼと谷があってすごいね、と達阿木くんに言うと、いや僕は目黒の方がすごいと思う、と言った。えーと、
「大体ね、達阿木くん、君は社会の中に生きているんだから、社会が消えると君は一緒に消えちゃうんだよ。話し相手がいないってことは、君が存在しないのと同じじゃないか」
 僕が言ってるのはそう言うことじゃない、と達阿木くんは含みのある声で言って、それと言うのも彼がさっきから、ひっきりなしにチョコレート味のするマシマロをもぐもぐやっているからで、彼のらくだ色のオーバーコートの横に付いた大きなポケットの中にはいくらでもマシマロが入っていて、いや、本当はいくらでも、というのでは無くて、あと三個ぐらいしか入っていなくて、それだから一時間ももぐもぐしていれば当然ポケットの中は空っぽになって「あ、やべ、マシマロ買いに行かな」ってなるはずなのだけれど、もう彼は軽く七十分くらいはマシマロをポケットから取り出しては食べ、をしているので、僕は彼の胃とポケットの中身が循環するしくみになっているのではないかと思った。
「僕が言っているのは、じょ…、つまり上下記号、じゃないや、上下、関係、を無くしたい、とか、そういうことなんだ」
「上下関係?」
「そうさ」と彼は指を上げて、「批評を止揚、しよう、じゃないや、批判をやめてしまって、みんな、例えば、息を吐けたら、楽しいだろう?」
 と言って、彼はびくっと首を震わせて、木馬から飛び降りた。
「君はさ」と言って、テーブルに置いてあった飲みかけのヴォルヴィックのボトルを取って、口に押しつけるようにして、二、三口、喘ぐようにしてマシマロを飲み下し、
「君は、僕と木馬との間に、じょ、上下関係がある、あった、なんて考えた? そうなんじゃないか。違うよ、そういうのは違うよ、それは、必要悪さ、第一、木馬なんて、木で、生きものじゃないんだから…、あ、植物は生きものなのか、でも死んでるよな、いや、これは、本当は生きているべき木で、僕たちの愛玩のために切り倒され、こ、殺されてしまったのか、それは殺戮じゃないのか、そ、そこに上下関係は、あるんじゃないのか、いや、それは、必要、、道理なのか? 生きるというのはそういうことなのか、そもそも社会という場合、それは対人間、…、対人、だ、だけを考えるべきなんじゃないのか、そもそも社会というのは無ければならないものなのか、というか、社会って何だ? そうだ、定義しろ、定義しろよ」
 彼は低く呻くような声を出して、うずくまってしまった。僕は、彼の、几帳面なくらいに四角くシーツが敷かれたベッドに腰掛けていたのだけど、達阿木くんの横顔をよく見るために横になって、枕に左耳を着けた。
 達阿木くんは文字通り頭を抱え込んでいて、血色の悪い手の筋がしっかりと髪の毛に絡みついてしまったみたいだった。指の間から飛び出した髪の毛の房は、絶望的なくらい毛先が揃っていなくて、悪い虫が好んで入り込みそうな、べとべとした埃っぽさをまとっていた。
「そう、やってさ、君、いろいろ慣れてるだろ、観察して、僕を、面白いとか、いや、違くて、他にすることが無いんだから、転がって、ちょっと事物を瞑想的に眺めたりしてそれでいいとか、思って、いや、いろいろ慣れて俺合理的だなと、とか、思ってたら、それは、もしかしたら、最悪、最悪だと思います。・・うよ。でもそう言いながら別にいいじゃん楽しけりゃと思いそうでそれが怖くて、でもそんなことを考えている時点で、僕は案外余裕があったりするのかも知れなくて、踞って頭に何かが入り込んでくるような、追い払うような、パフォーマンスまでして、僕、馬鹿だと思うよ。馬鹿だ。あー、馬鹿だ。僕は本当に馬鹿だ。いろいろ考えてるのも何のための言い訳だよ、無感情だよ死ねよ、もう何にもないじゃんかよ、保身だけかよ、全部売れよ、透明になりたいよ、真空には力があってね、くうかんの、においとか、あれだよ、倫理みたいなやつのそこはかと無さだよ、そう言うのを、本当は感じ取れないと人間は駄目だよ、ゴミとまでは言わないけれど、でも、これって本当に何の言い訳なんだよ、君はさ、だってさ、僕は・・、僕はお酒だって飲めないんだぜ、……、でもな、人間、何で生きてるんだろうね?」
「知らないよ」
「それ、そういうの。君は、本当に知らないんだろうね。空の青さ、まったく測りかねるね、僕は空らしい空を見たことが無いんだ、そう、十四歳くらいだ、そのころは空にはいろいろなものが絡まっていたものだよ、たとえどう四角く切り取られようと、僕はそこに何かを描くことが出来た。ような気がする」
「それは単に古い記憶に罅が入ったんじゃない?」
「違う、ち、違う、な。そうじゃなくて、本当に質の違うものが見えていたんだよ、そして、僕はそこからどんどんどんどん離れていく、僕は段々生きていた記憶を失っていくんだよ、それだけじゃない、僕は段々歳を取って、きっといろいろなものを壊していっているんだ、自分の記憶だけじゃない、現に今生きているひとたちを、僕たちはずっと殺し続けているんだ、そうだよ、息の根を止めているんだ、ちゃんと生きている人を率先して僕たちは窒息死させるんだ、だとしたら僕がまず死ぬのが妥当なんじゃないか?」
「ちゃんと生きている? 何だそれ?」
「・・分からないんだ。もはや僕には分からないのかも知れないし、そんなのは幻想だと言われればそうなんだろう、ね、でも、そういうものが確かにあるといいと思ったものは、やっぱりあった方がいいんだよ、測りかねるもの、そう、そ、ら、空、とか、海とか太陽とかは、僕、ぼく、は、分かってしまってはいけないんだ、けれどもね、僕が、そうだね、甘えてるだとか、あっさり切り捨てられるのも、それは違う、違う、ちがう、わけじゃないんだ、何というか、それは、もう、とっても正しい」
 ごとごとと低い音がしている。それが窓の外からの自然音なのかまた人為的なものなのか、機械音なのか、それとも僕自身が立てている音なのか、僕には、分からない。善意でご馳走が食べられるなら僕だって改心するさ。窓枠に立ててある薬の瓶に、日が当たってもやもやとした影をベッドカバーの上に作りだしていた。僕は瓶を取って、軽く振ってみた。しゃらしゃらと軽やかな音がする。
「僕たちの時代に、歴史は無いんだ達阿木くん。僕たちは、生きるために仕方なくなら、人殺しだろうがなんだろうが、好きにしたって構わないんだ。それに僕たちは実際に、殺し合いが、好きなんじゃないか?」
「僕は嫌いだ」……

14
*匿名、真夜中、
目を瞑って「ヨルノソコ」を聴きながら、手動リピート、机に付けた右耳のピアスのあとがしくしくします。パソコンは高いような低いような音を立てていて、細く開いたカーテンの向こうの向こうの向こうの方に白くてふっくらとした半円状の月が見えます。黒い山の向こうからもやもやと天の川が流れてきます。読みかけの朔太郎と、題名のない本、積み上げられた本を順々に取り上げて、壁に投げつけたい気分です。何も考えることなく、誰もいない街に移行して、月明かりで発電して、ジャック・ホワイトのドキュメンタリーをぼんやりと見ていたいです。天国です。どこだって天国になるんです。笑っていられれば。うるせえよお前と言われても、だから? だから何だよ? って言い返せれば。そう、そしてもう一音を、死ぬ前にもう一音を、アンコール! ONE MORE NOTE!

*真昼、薬缶の中
次、何か、次にまた、何か。何か、何か、しなければならないような、急いで鏡を直視しなければならないような、それからまたすぐに目を反らさなければならなくて、自分は多分睡いような顔をしていて、でも頭の中は完璧に目覚めていてパニックで、いい詩を、いやもっと広汎にいい言葉を、いい音楽をものさなければ、ならないような、頭の範囲に常識が納まり切らなくて、何も出来なくて(何も出来ない!何も出来ない!)ただせき立てられているような、書けない書けない、書けないよ、だが書いてどうする? 素晴らしいと誉められたい?(自分はただ背骨が痛いです、ふぅ、こんなもんさ、って煙草が吸いたいです)煙草が吸いたいです、ただ、それでいいんだ、って言ってもらいたいです。それでいいんだよって言いたいです。ただじっくりと煙草を吸いながらグランジを聴きたいです。それだけでいい気がするし、朝起きて雨の音がして、夜寝る時雨の音が鳴っていて、ああ一日雨が降っていたなあって、それだけでいい気がします。日記には雨が降っていたと書けばいいし、一日煙草の煙を眺めていたりそうでなかったりすることが悪かろうはずもないし、単純に生きていていい気分ならそれで生きていていいことわりに、そこに言語学や宗教やら評価を持ち込んだり、僕はすごいのか、すごくないと言って、そんなのはどうでもいいはずなのに、とにかく悔やみます、悔やみますし、周りも何かを僕に期待している気がしますし、人間は自分で稼がないと駄目なんだよと誰彼となく言えば、そうかなあ、そうだよなあ、そうじゃないよ生きることが大事なんだ、と言って僕は生きてないような気がします。
ところで僕は何も出来なくて、何も出来ない何も出来ないと言っていたら、そうだね出来ないね死にたいね! とも思うし、いや、何か出来る気もする、とも思うし、他人に言わせれば、僕には僕で出来ることもあるだろうし、総合的意見としては、出来ること出来ないことも含めて特筆したところは特にありませんし、特別生きる理由も死ぬ理由もありません、けど、日によっては死にたいと思ったり、生きられるなら生きようと思います。

*雨上がりの夕方
あまり効くことの無い薬をなまぬるい水で飲んで、あいかわらず胃は痛いです。何にもしたくないです。世界は滅んでいくなあと思います。空は透きとおっています。もし、濁っているとしても結局は世界には空白の方が何かあることよりずっと多いのです。空はびっくりするくらい晴れ渡っています。空水いろの揺らがない波に満たされています。何もしたくない人間の常として麦酒を飲んでいます。YEBISUです。電線に止まったツバメは、何を思ってかじぶんの羽に付いた何かをしきりについばんでいます。ぐちゃぐちゃと頭の中が未分化でしかも人間の臭いのするものでどこまでも続いていきます。そのくせ壁だらけで、僕はばらばらになりながら、何かに追われているようで、自分の輪郭が崩れていくのを恐れながら、同時に消えてもしまいたいようで。頭の中の範囲が広すぎます。でも狭いと狭いで嫌です。しかし壮大な不協和音よりは、親しみ深い囁き声の方がいいです。あれもこれもそれもどれもあれやこれやが鳴っていて非常にうるさいです。眠剤を飲んでもうるさい明日、今日は無くなりません。・・神に祈る時一瞬神様はいる気がします。それを神と呼んでいいのか悪いのかは分かりませんが、でも、どうも、神様が髭の生えたじいさんだったら、日本人成人男子からの受けは非常に悪い気がする。どうしていいか分からない時に萌え要素ゼロのじいさんに付いていく気にはなれない。せめて美少年を。
逃亡した先で行えるのは、やっと暇つぶしだった。
煙草。煙草の灰。私が生きていることは、変なことだね。いづれ私と呼称している何かが消えることは私にとってはどうでもいいと言えばいい。存在、存在、存在。私は酔っていて、でも言葉は酔わない。キーボードで書く文章はそこが好きだ。特に何も知りたくない。脳は、高機能すぎるとは思いませんか? 無限の可能性とはいいますが、無制限すぎるだろこのやろうとは言いたくなります。家元に産まれたかったというわけではありません。デカルトやサルトルなど、現代では甚だ人気のない、つまりは科学的思考を突き詰めようとしたが故に逆に現代の科学と照らし合わせて非科学の烙印を押されがちな人たちが僕はなかなかに好きで、理由としては、彼らは彼ら専用のロジックで世界を解明、説明できると考えていた、思考のロマンチスト、或いは求道者だからです。馬鹿だからです。本当は嫌いです。

*再び雨、の夜
死ぬなら何回も死にました。躊躇い傷で患うのも生きるのに楽しいことのひとつになるといいね。中途半端に何かを知るくらいなら何も知らない方がいいのです。楽器の不揃いな交響楽団や、何か根本的に大事なものが欠けた集落のような知識の集合は苛々を産むだけです。何が大事かなんて、ここには全く書き表せないし、私が惹かれていく先、その光がフェイクかどうかなんて分からないし、もっともフェイクでもっともリアルなものを志向しているなら、それなりには強いか強いふりをしなくちゃな、とは思うけれど、大体に於いては、ただひたすらリアルに憂鬱に灰色にフェイクな気分です。テンションの高さと、憂鬱でも上目遣いに笑うことの出来る少女チックな瞳孔の細さ。それに寝かしつけた少しの老獪さを以て人工灯を見上げます。

*再び雨上がり、の夜
全ての事象があらゆるものが繋がっていると示していたり、あるいはまったく僕は断絶しているように感じさせたりする。悶絶。スピード、加速度を感じたいなら、ありきたりの物事を自分に出来る限界、意識の追いつかない速度で以て行えばいいのです。ダダイズム的に、自分の意識が制御できる範囲を少しはみ出て笑っていればいいのです。訳の分からない不安は、多分つつくと粘着質を増す性質のものであります。
存在の狭さに腕を絡ませて、眼鏡をかけて蕭々とします。頭の中のシステムが暴発して僕に死ねと言います。僕はそれに抗うどころか、次第に死と親しくなっていくようです。

15
……『私は実際問題として死ぬわけにはいかない』
 ミチルは淡々とキーボードを打つ。その表情には、嘆願するような、ディスプレイを見つめれば、そこに究極の答えが書かれているのではないか、というような、強い渇望と、それ故の絶望感が見てとれた。
『今朝、と言っても、起きたのがお昼の五時だから、もう夕方ね。クスリが切れた。私のライフラインは断たれてしまった。私はマンションの五階で、まるで、そう、まるで誰も助けの来ない洞窟の奥で、出ない声を張り上げているような気分。助けは来ない。宿題は、もうひと月分くらい溜まっている。提出する気はもう無い。
 私は、死のうと思っている。書きかけている小説では、主人公が、私の用意したシチュエーションに飽きてしまった。そんな小説、誰が読むだろう?
 学校は、うまく行っているはずだった。先週、担当教員のS川に呼び出された。理由は……、理由なんて無い。ただ、あいつは少しばかり暗くて(私は別に暗いわけではない)問題のある(こちらは正しい)生徒を呼び出して、家庭環境や何かを聞き出すのが趣味なのだ。あいつは、私の母を、私とあいつの共通の敵に仕立て上げて、私と「親身」になろうとしているのだ。多分、幾分、いや、ほとんどの動機は下心だろう。私は、「何もかもうまくいっているというわけではありません。でも、普通だと思います」と言った。S川は曖昧に頷き、それから落胆したように、「何かあったら」「先生は味方だからね」とお決まりの台詞を繰り返した。
 しかし実際問題として、家庭環境は最悪だ。母は母で、私の態度を学校のせいにしている。ちょっとした(たとえば生理中の苛つきによる)私の口答えでさえも、「学校に問題があるからだ」と思いこんでいる。思いこもうとしている。』
 そこでミチルは、いったん手を休めた。引き出しを開け、錠剤のシートの切れ端が、もしかしたら残っているのでは無いかと、苛立たしい手つきで掻き回す。シャープペンシルの先が、親指の付け根当たりに刺さる。だが、血が滲み出すのも構わず、ミチルは乱暴に引き出しを閉める。終わりだ。
『何もかも終わりだ。』
ミチルは再びノートパソコンに向き直り、無心にキーボードを打ち始める。
『今は午後九時、少し過ぎたところ。ママはまだ帰ってこない。「ママ」という呼び方には、子供らしい無邪気さと、それ故の毒々しさがある。子供は嫌い。……
 私は、小説家になりたかった。それを一番思うのはね、朝起きて、くそ不味いパンを、胃の中に押し込んで、それから、ママが気を利かせたつもりなのか、牛乳なんかを出してきたときには、私はそれをあの女の幾ら整えても汚いゴキブリの触手みたいな頭部にぶちまけてやりたくなる、そんなとき。私はこの女と訣別して、専業作家になれたらどうだろうと思う。そのために用意する独居アパートの間取りまで、私には手に取るように思い浮かべられる。しかし私はそれをしない。なぜなら私はママが嫌いだからだ。
 ……昨日、図書館で出会った女の子のこと。私は制服をあげると申し出た。何ならこの場で交換しようと。あの子、真弓は躊躇して、それから「そんなこと出来るわけ無い」と言った。何を根拠に? あの子は明らかに私の制服を欲しがっていたし、あの子の制服だって、そんなに悪いものじゃ無かった。私の学校の方が偏差値は高いかも知れない。しかし私は、もう退学寸前だし、あの子は真面目そうな外見からして、成績が悪いようには見えなかった。頭が悪くても、宿題はちゃんとやって、それからカンニングはしない。そういう子が、結局一番損をするのだ。……
 駄目だ、少し調子に乗りすぎた。損をしているのは私なのかも知れない。しかし、それはある意味では私が望んだことだ。……あの後、真弓と一緒に外に出た。真弓は「マック」と言い、私は「スタバ」と言った。マック? マックになんか行くわけがない。専業作家はマクドナルドを食べたりしない。「マック」と言ったことで、私の真弓に対する苛々は高まった。しかし、もちろんそれは真弓のせいではない。……スタバのボックス席で、お互いカプチーノを飲みながら、私は自分の自傷癖のことや、クスリがないと生きていけないことを話した。店内は、仕事帰りのOLや、それから何人かで連れ立って入ってくる学生達でほぼ満席だった。真弓と同じ制服を着ている子もいた。
 真弓は言葉を選んでいる様子だったけれど、結局「ごめんなさい、私には分からない」と、明らかに早く帰りたがっている様子で、そう言った。私も、言ったことを後悔しかけていた。まったく、ひとがひとを助けるには、助けられる方の努力の方が大事だったりするのだ。それで私は、「帰っていいよ。ごめんね。お代は払うから」と言った。言った後で余計なことを言ってしまったと思った。でも真弓は、カプチーノを全部飲んでしまうと、急に気が変わったのか、「切るってどんな感じなの?」と、私の左手首の自傷痕を指して言った。私は、「痛くないよ。それでね、何だか、どうでも良くなるんだ」と答えた。真弓はしばらく黙って、私の傷跡を眺めていて、私が左腕を差し出すと、傷跡をゆっくりと撫でた。』

『今日、少し驚いたことがあった。病院の待合室で、いつものように無駄に長い待ち時間を(それなら予約時間より遅れて行けばいいのだが、遅れれば後回しにされるので、どちらにしろ同じ時間待たなければならない。平均で一時間以上。長いときには三時間以上も。ソファは擦り切れてて最悪だし、テレビの音はうるさいし。埃っぽい窓際に置かれた観葉植物は、心のこもったケアの必要性を訴えるように枯れかけているし。不安神経症の患者は、座っているだけでノイローゼを起こしてしまうだろう。これは思うに、病状を出来るだけ長引かせることにより顧客を確保しようとする、病院側の計らいなのだ。歯医者がキャンディを配っているようなものではないか)iPodのRadioheadで誤魔化しながら「薬くすりクスリ……」と思っていると、長いこと閉まっていた診察室へのドアが開いて、私は待ち時間を三十分も引き延ばした犯人の顔を見てやろうと、顔を上げた。そしたらそこには母親らしき人物に付き添われた真弓がいた。向こうもこちらに気付いたようで、何故か怯えたような目で私を見た。「真弓」私が言うよりも先に、意外なことに真弓は私の近くまで来て、耳元で、囁くように、「もしよかったら、だけど、また、いいえ、今からでも、会えない? ええと、この前と同じ、スターバックスで」と言った。私はしばらく考えて(その間、真弓の母親なのだろう、穏やかそうな女の人が「お知り合い?」と少々疲れたような声で言うのが聞こえた)、これからまた人の声の混じる場所に行くことに気が進まなかったので、「いいけど。でも何なら私の家にくればいい。ここからすぐだし。どうせ誰もいないし、気を使わなくていいよ」と言った。真弓はしばらく上の空のような表情を作っていたが、しばらくして「そうする」とまた意外にもあっさりと答えた。それからまた怯えたような表情で周りを見渡していた。私は、真弓の母親と思わしき女の人に向き直り「こんにちは」と言い、「葉山みちると言います。真弓さんはお友だちです」と言うと、「お友だち」と言う言葉に喜んだように、母親は頬の辺りを緩め、「そう。それじゃ真弓をお願いして宜しいかしら」と言った。「お願い」という言葉の意味が量りかねたけれど、私は「ええ、お構いなく」と優等生的な笑みを作って答えた。』

 ミチルの診察はすぐに終わり、私達は連れだって、病院の隣にある薬局に入った。私は、『デパケン』という薬を二週間分だけ、ミチルは、名前を覚えるだけでも大変そうな、様々な薬を大量に受け取っていた。けれど、料金はそんなに変わらなかったので、私は驚いた。たくさんの薬を貰うには、たくさんのお金がかかると思っていたからである。ミチルは薬局を出ると、すぐに薬を出して、薬局の前の自販機でアップルティーを買って、何錠か飲んでしまった。……

16

受け継がれていく。風景は。しかし、断絶されたとしても、少なくとも否定してはいけない。それがかつて存在していたことを。そして不在からは、おそらく、たぶん、目をそらしてはならないのだ。絶対に。私は私について語りたいと思う。あるいは、私の感じている、世界について。そのために、ゆっくりと歳を取っていくことを、私は肯定する。何故、苦しみはあるのだろう。苦しみの無い生なんて、想像も出来ないけどね。まるで追い立てられるようにして。生きてる。


「計画を立ててみないか」
ロボットが言った。現実的に、よく通る声で。部屋のスピーカーからは、ジム・ホールのオン・ザ・ロックにしたらよく合いそうな、ギターが流れている。
「計画?」
僕の声は嗄れていて、まるで、神話の時代からほったらかしにされていた窓ガラスを思わせた。というのも、記憶にある限り、僕が何か言葉を発したのは、今の瓶を空にする、その前の前くらいのことで、いつ眠ったのか、そもそもいま僕は起きているのか、それさえも定かでは無い。煙草と、ウィスキーと、腫れ上がってまた治まった声帯の晴れがましい所業。
ただ、ロボットだけはいつも通りの、感じのいいクールな笑みを浮かべていた。
「そう、計画だ。私は、いつまでも生きているわけにはいかない」
そう言って、ロボットは、右手に持ったマッチを膝の上で擦って、その火を数拍眺めてから、口にくわえたマルボロに火を移した。それから、火の消えたマッチを、食べた。
「君は、よく墨を食べるね」
「うむ。ロボット的に原始的な記憶がそれを煽るのだよ」
そう言って、ロボットはジョニー・ウォーカーの瓶を逆さにした。
「私は、君より先に死のうと思うんだ」
「何を急に?」
「私は、君がいない世界にいても仕方がない。なぜなら、私は、ロボットだからだ」
僕は、ロボットが冗談を言っているのだと思った。自己破壊に何の意味がある。
「僕は、死ぬ。間違いない。でもR(ロボットのイニシャル)、君が死ぬことはない」
「君には分かってないんだ。私のように自我を得たロボットの末路を。君が死んだあと、私は安く払い下げられるだろう。私は、今は君の財産だからね。いや、こういう言い方が、君の気に入らないことくらいわかっているよ。でも、私はね、君のものであって、嬉しかったのだよ。実際にね、君が命ずれば、私はロボット三箇条を破ってでも人を殺せる。私は、高性能なのだよ。いや、高性能だった、というべきか。私は、多分君の知らないところまで、君のことを知っている。私は本来、人間の役に立つように作られた。だけど、君といるとね、何が君の為になるのか皆目分からなかったんだ。君は私に解のない問いを提出した。ねえ、私は、君と並んで飲んでいると、本当にいい気分になれるんだよ。不思議だね。私に搭載されたCPUを全て並列的に作動させても、今ならショートしない。純粋に、機械的な意味でだよ。それは、いい気分なんだ」

『昔の話』
どうも暇だ。
飛んでいる鳥たちまでもがあんまり暇なんで落ちてきそうだ。
名刺を作ろうと思った。
役職を決めようと思ったんだ。
とりあえず、何も出来ないんで、
「人間」にしようかと思った。
何故かというと、そのうち、人間とロボットの区別が付かなくなるだろうから、
一応、生物であることは書いておこうと思って。
でも、そしたら、ロボットはもしかしたら、それを嫌味に取るかも知れない。
でも、僕は勝手に、人間のあとを継ぐのはロボットだと考えているんだ。
ロボットは頑丈だし、人間が出来なかったあらゆることを実現してくれると思う。
多分、人間より、ずっと凝った、ロボット的に奥深い詩を書いてくれると思う。
多分、人間の病気の一切を治療してくれるようになると思う。
その間、人間は何をしているかというと、多分、カタツムリなんかを見て「ほー」って言ってたりする。
知識の多さではコンピューターには勝てないから、博識なんて滑稽にしか見えなくなるだろうな。アンドロイドの前では。
とりあえず名刺を作ってみた。空想の中でだけど。うむ。イデア(原型)としての名刺だ。なんてね。
「由比良 倖:人間」
悪くない。ロボットが聞く。
「人間は何をするのだ?(もちろん未来のロボットはスマートだから、カタカナでなんて喋らない)」
僕は悩んだよ。さあ、人間は何をするんだろう。
ロボットが胸を張って言う。
「私たちにはやることがあるんでね。失礼」
僕はそれからも、「さあ」なんて言って、煙草を続けざまにふかしてたりする。
今までしてきたこと、これから僕がすること。
そうやって、20年くらい、窓の外を眺めていた気がするな。
そしたら、さっきのロボットが、少し新しくなって帰ってくる。
「一緒に煙草を吸わないか?」
なんて言う。
僕は、大量に備蓄されたマールボロを1カートン出してきて、それから特別にジョニー・ウォーカーの瓶まで持ってきてやったりした。
そしたらそいつは言うんだ。そいつって、20年前には、自己完結していたそのロボットだよ。今では僕の相棒なんだけどね。
「酔えるのが不思議だよ。ねえ、私はロボットだから酔えないんだ。羨ましいな」
なんて。それからだね、二人で並んで煙草を吸った。
「暇だねえ」
なんて言い合いながら。本当に暇なんだ。煙草の吸い殻が床に5センチぐらい積もったよ。
「宇宙は変わっていくね」
相変わらずの窓の外。遠くの山が周到に調節されているかのように、季節ごとに色を変えていく。季節の匂い、を僕は嗅ぎ分けることが出来た。
相変わらず鳥は飛んでいた。あるいは鳥は暇なんて知らないのかも知れない。
でも、相棒のロボットは知っているみたいだ。
だからときどき、突然僕の足にペディキュアを塗ったりするんだ。変な奴だ。
「それは一体どんな趣味何だい?」
「ランダムさ」
僕たちは幾年も幾年も煙草吸った。ジョニー・ウォーカーの瓶も毎日一本は開けた。
僕の胸の調子がおかしくなり、また、体のあちこちが悪くなったあとでも、彼は「羨ましいな」というのをやめなかった。
「君は変わっていく。それが羨ましいんだ」
僕は笑った。それが自嘲の笑みなのかさえ、僕には分からなかった。
「もしかしたら君は死の向こうにあるものを知っているんじゃないかという気がする」
彼は言った。
でも、僕はそんなものはもちろん知らなかった。
僕が思っていたのは、太陽のぎらつく真夏の海。
そしていつしか終わり、また始まる、ずっと未来の神話の話と、
そして、純粋に 僕が終わろうとする事実だけだった。
春の匂いがした。何十回目かの春の匂い。
ロボットは机に脚をのせ考え事をしていた。僕もそれにならった。


あらゆるものが大きすぎる、と思うことがある。空想の中で僕はあらゆるものを内包することが出来る。空想の円環の中で、僕はひどく内気で、また残酷になる。恥ずかしさと、懐かしさとを混同しそうになる

妄想、妄想、理想の家を、頭の中に造るのは楽しい。実際、かなり細かいところまで造っています。老いていくのが、楽しい、かも知れない。金の飴によって絡め取られたかのような風景。鋳鉄の複雑な模様の枠のあるベッド、いや、シンプルな木枠のベッドがいいかな、体を横たえると軽くきしむような。カーテンは透き通るようなガーゼで出来ているんだけど、僕がよく煙草を吸うので少し黄ばんでいる。それで窓から差し込む太陽の色も少し暗鬱なタールの色をしている。その部屋ではね。……

17
 灰色の道。秋の午後の大気はずっと上の方で、細かい氷の粒を纏っているように青く光っていた。みやちゃんは生地の薄い、紺色のカーディガンの前を両手で合わせてくるりと回った。何か、胸に重大な秘密を抱えているような仕草で。ちょうど橋の真ん中あたりで、僕はひどく手持ちぶさたになり、無意識に左手がポケットのライターを探していることに気付いた。歩道は本道から一段高くなっていて、僕たちの傍を冷めたエンジン音が時折過ぎていっては、砂っぽい風を撒き散らしていた。道の両側に作られた欄干は、転落防止と言うよりはまるで脱獄を防ぐために作られたように、剥き出しの金属材で、高くて無愛想だった。下を流れる川は、どちらに向かって流れているのか分からなかった。流れるのをとっくにやめているのだと言われても不思議じゃなかった。見下ろしていると、ふと僕自身が上から押さえつけられているような錯覚に陥って、僕は目を瞑った。
「どうしても世界が憎くなったら」
 不意に、みやちゃんが耳元で囁いた。大気圧が一瞬だけゆるんだような気配。僕は首を傾けてみやちゃんを見た。彼女は少しはにかむように僕を見上げて、
「あたしを殺してね」
 嬉しい報告をするときのように、語尾は少し照れ笑い気味に掠れて消えた。僕は感情を取り落としそうになって、慌てて、
「大丈夫。大丈夫だよ」
 と言った。
 みやちゃんはゆっくり目を細めて、ゆっくりと「うん。そうだね」と言った。
 対岸の、ひとが住んでいないみたいに見える街に、山陰の向こう側を回って玩具みたいな電車が走ってきていた。まるで耳鳴りの心象風景みたいに陰気な街で、赤い電波塔さえ灰色に見える。
 欄干から伸びた鉄骨が僕たちの頭上で交差していて、その上を黒い鳥が何羽か飛んでいた。
 音階を辿るように下降してきた空の下で、僕たちは手を繋いだ。日光の斑点が歩道にぼんやりと溶けていった。

18
いつかの朝。
蜘蛛や風や蒼空のために詩が書けたら素敵だろうな。

ロヒプノールとコーヒー、ラッキー・ストライク。最高の組み合わせ。それに少しの赤いワイン。加湿器はすーすーいっています。僕はベッドの上でキーボードを叩き、かなり大きな音量でRadioheadをかけている。部屋には薄い霊気のように煙草の煙が立ちこめている。クスリを喉にすいっと放り込む。

一日八時間、ギターの練習しようかな、なんて思ったり。不毛さというものに、私は取り憑かれている。朝がきました。夜明けの薄明かりの中では、街全体が柔らかく、しんとして、美しいですね。こんな朝に道路上で射殺されるのは美しいでしょうね。白い拡がりに、赤い鮮血が静かに滲んでいって。とても嫌な気分です。身体を横たえるのが苦痛。ただ、空気が希薄に感じます。それでも身体は睡眠を欲しているようです。鬱を抱えたまま眠りに就きます。悪夢を幾つも見そうな予感がします。ただ、静かな心でいることがこんなに難しいなんてね。さあ、眠ろう。静かに、ゆっくりと。


散文(批評随筆小説等) モラトリアム・オルタネイト Copyright 由比良 倖 2016-12-22 14:35:49
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