異端者ガランドゥスの思想について
がらんどう
ガランドゥスはエイレナイオスの『異端反駁論』(本来は『いわゆるグノーシスと呼ばれるものに対する論駁』)によってその名を知られるのみで、その実像は分かっていないが、おそらくは150年頃の小アジアに生まれ、やがてアレクサンドリアを中心に独自の教団を形成していたと思われる。エイレナイオスは彼をグノーシス主義者と批判しているが、グノーシス主義的な枠組みをとりながらもどうやら彼自身グノーシス主義に対する痛烈な批判を行っているようである。
「この世界の外に神はいない。ゆえに神とはこの世界の内側にいるものの名前だ」
彼のこの言葉は、デミウルゴスもまた被造物であるが故に神性を帯びる、ということを意味している。神はデミウルゴスを生み、デミウルゴスは世界を生む、という関係性において、神は世界の内側に折りたたまれる。塵芥の中で塵芥として神性を獲得するということ、つまり一足飛びに「別の場所」への超越を求めないということ。そこにおいて、彼はグノーシス主義の二元論的世界観に対する攻撃者となるのである。
「我々は失望ではなく正しく絶望しなければならない。だが絶望だけではまだ足りない」
また彼は次のようにも述べている。
「イエスは正しく人間であった。その人間であったということにこそ救いの可能性はある。イエスが人間でなかったとしたら、ただの人間にどんな救いがあるというのか?」
これなどはまさしく反グノーシス的な見解の極みといえよう。グノーシス主義というよりは二世紀末のテオドトゥスに端を発するといわれる「養子説」のような見解であるが、父と子と精霊を単一の神の「顕れ」と説くモナルキア主義や、子を父にならって創造されたものと考えるアリウス派との関係も疑うべきであろう。その観点からはオリゲネスの思想との接近も伺える。
このようなグノーシス主義者によるグノーシス主義批判ととれるような発言については以下のようにも考えられるであろう。たとえば、(その名も知られていない)グノーシス主義者自身も『ピリポ福音書』のなかでこう語る。
「もし、グノーシスの入信者が賢明であるならば、その者は弟子として修行するのがいかなることなのかがよく分かっている。そして肉体の形に惑わされることなく、各人の魂の状態を見抜き、その魂と対話を交わすであろう。この世には人間の姿をした数多くの獣がいる。賢明なる入信者がこれら獣たちを見極めると、その者は豚には木の実を与え、牛には大麦や籾殻や牧草を、犬には骨を投げ与えるであろう。奴隷にはほんの初歩的な教えを授け、子供には完全なる教えを授けるであろう」
つまり、グノーシス主義と称されるものが互いに矛盾した教義を持つ理由もここにある。学ぶものの真理への距離によって、真理自身もその姿を変えるのである。おそらく、真のグノーシス主義者はグノーシス主義を否定するものと言えるであろう。
「神の名前は、神がこの世界にあるが故に、この世界の内側にある。だが、その名前はかつて口にされたものではない。ここで我々はひとつの言葉を想像する。かつて、ある言葉を用いた人々がいた。だが、その人々は既に滅び、その人々の言葉を知るものは今やいない。そして、その人々は神という概念を持たなかったが、神の名前はその神を知らぬ言葉によってしか表すことができない。彼らは神を知る可能性を持ちながら、神を知る前に滅びたのである。それゆえ我々は、間違えて偶然に神の名前を口にするかもしれぬと、神のものではない名前を反復するのだ」
これが彼の思想の中核をなすと思われる発言であり、そこには「反復の外に出るための方法としての意図的な反復」という考えが見える(差異を生み出すのはいつだってミスコピーである)。これに関してもオリゲネスの思想を参照すべきであろう。たとえば、オリゲネスは『ヨハネによる福音注解』において「そして神ご自身は、いかなる被造物の思考によっても把握されない」と言いつつ 「父なる神については、誰も相応しく語ることはできないが、諸々の目に見える被造物を契機として、そして人間の精神が自然的に知覚するものから、ある種の認識を得ることは可能である」と言っている。ここでオリゲネスが示しているのは、神の本性が「未だ」有限な被造物には隠されているという事実であって、有限な被造物には神を知ることが不可能であるということではない。そもそも、神が、あらかじめ何らかの形で知られていなければ、神について何かを問い語ることは不可能だからである。だが、ガランドゥスは更にその認識の契機として「偶然」と「失敗」を提示する。
「存在が私なのでなくただ行為のうちに私は立ち現れる。存在するためには存在し続けなければならない」
この言葉にも伺えるように、彼の思想においては、神を知るということは神を求めるということと直接に結びつけられるのである。