夜、幽霊がすべっていった……
岡部淳太郎

夜、

背後に
人は身体をこわばらせる
何がよぎったのか
誰があとをつけているのか
この暗闇の中では
振り返る勇気はなく
確かめるすべもなく
人は
いくつもの時を越えて
人類の始まりの歌を
歌う

あれはいつのことだったか
君は獣に追われ
君は聴き耳をたて
君は炎の側で安らぎ
それはすべてこの全時間の半分を覆う
夜の間に起こったこと
あれはいつのことだったか

日は隠れ
星は瞬き
そんな夜という名の領域での
繰り返す生活の一部
誰もが日々越えなければならない
広大な版図
時には意を決して
漆黒の中へ踏みこまなければならない
そんなことも ある
だが

夜、
その「 、」のあとが恐いのだ
そのあとに何が待っているのか 何が
君のために身がまえているのか
ああ
せめて眠ることが出来たら
それは人類の共通の願い
だった
それこそがこの闇から逃げ出す最上の方法
だった

いまや
街は灯り
人類の共通の記憶は
危うく消し去られそうになって
宙に浮いている
だが時には
あれは猫か
あれは犬か
それとも何か別の
などと思うことも
ないわけではない だろう

夜、

その「 、」のあとを思い描いて
今夜も誰かがふるえている
私は
恐怖の中でさえ
頑なな
岩となる


幽霊が

今晩は。
どこかであなたと
お会いしませんでしたか。
君の前に現れて
いきなりそう告げるのは
誰あろう ひとりの
ひとつの
幽霊である

君は気づかない
それは
首を失くした男
または 脚の消えた女
あるいは 臍を取られた胎児
(なのだが)

もしくは彼女は
死してなお
実体化した宇宙の塵である
(のだが)

隕石への道を見出せず
岩石の思いにとどまったままの
未練をどこまでも引き延ばしたような
抒情詩
その余韻

もしくは彼女は
ひとり君のみに向けて つぶやく
寒いのです。
どうか私に
熱をください。
そう云われて初めて
君は気づく
君の
動かぬ脚
そして 月の悲鳴

夜は凪
道は細い 裏通りで
あらゆる人工の灯りは
周到にこの場所を避けている
時もところも
どちらも閉ざされた迷宮の中だ
君は蒼ざめ

もしくは彼女は
なおも云いつのる
熱を、
熱をください。

気がつくと 長い旅のような
逃走
君は懸命に走りつづけていた

もしくは彼女は
求めていた熱を君から奪ったのだろうか
走りながらも君は
震える寒さとともにある
君の平熱は
三十六度五分
(なのだが)
それがいまは確実に下っているように思える
(のだが)
背後はもちろん闇の中
(なのだが)
振り返ることが出来ないために
闇の密度はますます高まっている
(のだが)
今晩は。
今晩は。

もしくは彼女が
君の前に現れた最初の姿は
とても透明だった
(のだが)

やっと
君はたどりつく
夜は時化
道は広い 表通りで
光瞬く文明の喧騒だ
君は 明らかな人を見つけ
がたがたと
歯の根で幻の糧を喰いちぎりながら
百年も老けこんだような気分で
云う

幽霊が
幽霊が


すべっていった……

すべっていった
   (廊下の上)
すべっていった
   (あるいは大理石の大広間)
すべっていった
   (砂浜の上だろうとぎざぎざの密林の中だろうと)
すべっていった
   (世界中どこででも)
そこに何の欲望も
   (なく)
希望や絶望もなく
   (泣く)
最後の眺望は閉ざされ
   (一行を無駄遣いする)
岩石に関する悲嘆だけを乗せて
   (転石の裏のひと押し)
ただ
   (鋼の車輪の最期)
すべるのは幽霊
   (バナナの皮)
人間では
ない
   (無い)

夜明け前の一時間
   (僕は何もしかけたりはしなかったよ)
彼 あるいは彼女は
   (川を渡る飛び石)
どこにでも出没する
   (落ちる果実)
そこに疑問の余地はない
   (割れる皿)
ただ
   (犬の星の光は確実に届いて)
ただ
   (青い星の闇は交替して)
すべってゆくだけで
   (括弧つきの炎)
何ひとつ思うことはなく
   (括弧つきの過去)
それが彼 あるいは彼女であるということ
   (カーペットが毛羽だつ)
そこに疑問の余地はない
   (身の毛もよだつ)
夜明け前の一時間は
静かだ
   (たったそれだけ)

そしてすべる
   (僕は何もしなかったのに)
そしてすべる
   (何ひとつ生きたためしがないのに)
もうすぐ夜が明けて
   (そこに疑問の余地はない)
朝刊のざわめき
   (落ちた魔術)
牛乳のさざめき
   (割れた血)
彼 あるいは彼女は
   (こうしてふわふわと立っていて)
もう溶けなければならない
   (それからすべる)
逃げるのではなく
   (それからすべる)
光の中に吸収されて見えなくなるのだ
   (どこでもないいまここへ向かってすうっと)
幽霊の時間は終る
   (すべてはすべるそして僕も)
それまでは息苦しい闇の中で
静かだ
   (すべっていった……)

人間はすべらない
ただ
歩くだけだ




連作「夜、幽霊がすべっていった……」


自由詩 夜、幽霊がすべっていった…… Copyright 岡部淳太郎 2005-02-11 19:07:03
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