黒円(小説)

 それは男にとって突然のことだった。ある日男はいつものように取引先に向かうために横断歩道を渡っていた。そしてそれは突如目の前に出現したのだ。真っ黒で、何の金属でできているかわからないが、御影石のような光沢をもった丸い輪っかが空中に微動だにせずに浮かんでいる。横断歩道を渡る他の人々は何も気にする様子はなく、次々と男一人を残し足早に前後へ去っていく。男は目を擦ってみた。するとその黒い輪っかはその出現の仕方と同様、また突如として消えた。立ち尽くす男に大きくクラクションが鳴らされる。何だったのだろう、と男は首を傾げた。

 しかし、黒い輪っかの出現はその一度きりではなかった。やはり取引先へ向かう横断歩道上で、男の行く方向を遮るかのように現れたかと思うと、瞬時に消えた。大きさは直径2mはあろうかという程のドーナツ型の円環で、真中は空洞になっている。次に現れた時に、その空洞を覗き込む機会を男は得られたが、中はただ白い空間が広がっているばかりで実際何もなかった。その時の現れ方はいつものように横断歩道の上という訳ではなかった。今度は会社の窓から見えるビルの上に、それはまた突如現れ、ゆっくりと男の居る窓の方へと移動してきたのだ。移動したことはこれが初めてであった。そのおかげで少し緻密に観察できたという訳だった。観察してみてわかったことはその黒い輪っかは非常に微細に震え続けているということであった。そして御影石のような光沢はその震えが生み出す自らの光であるようであった。

「どうしたの。あなた。最近、疲れているの?」

 ある日男の妻が面倒臭そうに男に聞いた。子供が生まれてしまえば、妻の意識など全て子供へ集中してしまう。小学3年生に中学受験を控えた子供が二人。今後の学費のためにも男はただただ働かねばならない。しばしば、男は自分がいつしかグレゴール・ザムザのような存在と化してしまったらどうなるだろうかと夢想する。意外と家族には必要とされず、最後は家族にその干からびた虫の死骸を箒で掃かれるだけかもしれない、と。妻の質問に男がただ黙って頷くと、彼女は「気をつけて頂戴ね」とだけ言ってパートへと出かけていった。
 男は今日も取引先へ黙々と営業へ向かう。売り上げも近年は落ちる一方である。その代わりノルマだけは増えていく。特別な打開策も見つからぬまま、時には飛び込みで新規を開拓しようとする。最近はまだ6月と思えぬ程暑い。このままでは本格的な夏が到来する際、目も当てられないと男は思う。男が子供の頃はこのような異常な暑さはなかった。30℃越えしただけで「今日は暑いね」と家族で話し合ったものだ。子供の頃、男は広島の山奥で育った。木造の日本家屋の庭は裏山と地続きになっており、夏には山に入り多くの昆虫を採集した。実家は農家で牛を飼い、鶏を飼いしていた。そんな男が都会に憧れ、上京したのが大学の時であった。今思えば、就職の際故郷に戻って農協勤めもよかったかもしれないと思うのだ。ただ男は農家を継ぎたくなかったのだ。

 男が子供の頃を思い出した瞬間のことだった。例の黒い輪っかが出現した。しかも今度は男の目の前に突如対峙するように現れた。真ん中の空洞を吸いこまれるように男が見詰めると、微かに何かの映像が映った。それは懐かしい故郷の原風景であった。それ程鮮明に映し出された訳ではないが、秋には真っ赤に燃える山々がぼんやりと男の実家と共に空洞の中に浮かんでいたのである。実家は最早崩れ果てているので、その光景が過去のものであることは明らかであった。人は映っていない。ただ山々と木々と懐かしい実家の庭と日本家屋の数々が遠景で映し出されていた。そして・・・次の瞬間には消えた。
 
 それから、男はその黒い輪っかが持つ機能にも気がつかされた。例えば、同僚がハワイのリゾートの話をしている時など・・・たまにはそういうリゾート地でゆったりしたいなどと考えると・・・輪っかが出現し、その空洞に薄ぼんやりと海の風景が浮かぶ。そしていつも映像を映す際のサインは・・・輪っかは僅かに微動し、全体がより光沢を放つのであった。自分の思考が読み取られているのかもしれない・・・と思った男は、出現率が上がっていく一方の輪っかが多少不気味に感じられてきていた。それはある日、満員電車に乗っている時にも男のすぐ目の前に輪っかが出現したからでもあった。他の人々にとって輪っかは透き通っており、その存在はないかのようで、輪っかが自分の体をすり抜けていくことにも無頓着であった。しかし、男は輪っかに触れることができるのであった。感触はすべすべしており、ひんやりともして心地よかった。この、男だけの実体感にも当惑させられたので、男は念のため心療内科も受診してみた。

「幻覚でしょう」
「しかし、その円環には私は触れることもできるんですよ?」
「そういう感覚も幻覚の一種です。俄かには信じられないと思われますが、そのような幻覚もあるのです。声は聞こえてきたりしますか?」
「いや、声は特に」
「では、他には何を見ますか?」
「黒い輪っかだけなのです」

 結局何かの薬が処方され、様子を見ようということになった。妻には余計な心配をかけたくなかったので男は黙っていた。しかし、薬の効果はなく輪っかはその後次々現れ、遂にはずっと出現し続けるようになった。その頃には男は黒い輪っかに慣れきってしまっていた。男の目の前に黒い輪っかは常に出現しており、それは取引先の部長などを擦り抜けてぶらんと宙づりになっている。丁度、ドーナツ型の空洞に取引先の人間が入り、その周囲を黒輪が象るといった形になっているので、仕事には支障はない。こうなると最早心療内科にも男は行かなくなってしまった。輪っかには次々とその時男が心の底で想う心象が映るようであった。何も映らない時は男は特に何も想っていない。それがわかれば黒円もなんということはなかった。
 
 しかし、ある日を境に黒い輪っかの空洞に映る内容が変化してきた。映像が鮮明になってきたのである。とは言え、段々内容は常軌を逸脱してきた。とある日はこの世とは思われない眩い光と共にフルメタル・ボディの真っ黒な、体が非常に薄く先の尖った巨人の群の行進が映像となって映し出された。かと思うと、またある日はアッシリア像のような巨大なスフィンクスが何体も出現し、これまた巨大な門を番兵のように守っているのであった。特に驚かされたのはその色彩であった。これはこの地上の色彩ではない。何色とは言えない、見たこともない色なのであった。凡そ極楽というものが本当に在るとすれば、斯ような世界のようにも思えた。全ての色がスパークしており、それでいて混濁せずそれぞれの色が己の個性を発揮しつつ、一つの光に纏められているといった風であった。そしていつしか男はその色彩や、常軌を逸した映像の数々に魅入られるようになっていった。
 
 この頃から男は誰に話しかけられてもうまく受け答えができなくなっていた。勿論仕事どころではない。会社に行くと見せかけて、近くの公園で黒円と共に日がな一日過ごしているのであった。妻は男の異常に気付いていたろうが、会社へ行っていないとまでは思いはしまいと男はたかをくくっていた。特に男は家庭では口数の少ない方である。更に口数が減ったところで、彼女の毎日の生活の中では気にも留められず忙殺されてしまうであろう。男は公園のベンチに腰かけながら黒円の空洞の映像を覗き込むようにしていた。そして思わず、その時手を伸ばした。すると、空洞の中へと手が吸い込まれていくではないか。慌てて引っ込めた。手をまじまじと見るが、何の変化もない。やはり多少男は恐怖を感じてそれ以来手を伸ばすことは気をつけるようになった。
 
 しかし、全てが白日のもとに晒される日がやってきた。会社へ通っていないことが妻にバレたのである。当然だが妻は激怒した。そして明々白々な事実である長男の受験のこと、今後の学費、生活、その他諸々の諸問題を話された。だが、その際にも黒円は男の前から消えてはくれなかった。それだけではなく、空洞の中では何か極彩色の花が咲いていた。それが二つに割れたかと思うと割れ目から次々と芽が出、花が咲いていくのであった。そして更に分裂し、増殖していく。男はその余りの美しさに目眩がした。結局妻の言葉は男の耳には届かなかった。
 
 翌日男は会社に出向くことを妻に約束して家を出た。しかし、気持ちは最早この世に向いてはいなかった。男はどうしてもこの黒円の世界へ行きたいと思うようになっていたのである。今日も黒円は男にぴったりとくっついてくる。そしていつもの公園へ着いた男は、思い切ってその極彩色の空洞の中へと飛び込んでしまった。すると・・・男の体が徐々に透けて・・・消え始めた。なんだ、これは、と男は慌てた。男はてっきり新しい美しい世界へ転生するのだと思い込んでいたのである。男の体がゆっくりと、何か牛乳にでも水を入れて薄めるように濁った肉体が透明になっていく。そして・・・なんだか意識もぼんやりし始めた。その時、初めて男の聴覚にある言葉が囁かれた。何かの機械音のように高い声で「ユートピア、ユートピア・・・」と。そう、男はユートピアに行こうとした。だが次の瞬間、男は学生時代に習ったユートピアの語源のギリシァ語を思い出した。確か・・・ギリシァ語原義では、否定詞ウー(~では無い)+トピア(場所)ということで何処でもない場所を表すのであった。とすると・・・この空洞が何処にもない場所を意味するならば、この黒円は「無」の実体化であったとでも言えるのだろうか。だから男は消えねばならないのか。実体が「無」であったから、男の思惑や何か全てを鏡のように映し出していたと言うのか。いや、論理的に考えてそんなことはあり得なかった。先ず、「無」は何もないのであるから、実体化のしようがない。しかし、ならば今男が消えつつある事態をどう説明すればよいと言うのか。ああ、最早男の意識は薄れ、記憶も薄れていく。そう、男はこの世に大切な家族を置いてきてしまった。男はルーティンに誤魔化されて、この世の存在そのものの在り難さを忘れてしまっていた。しかし・・・時に「ユートピア」への逃亡へと人は駆り立てられる。その衝動のせいで男の存在は、男自身が存在したという記憶をも全てひっくるめて全体的になくなってしまうのである。そして・・・そのためにこの草稿も、いずれあなたの目の前で跡形もなく消え去ることは時間の問題であると言えよう。そして結局黒円の「存在」とは・・・謎であり、ただ一人の男の存在が抹消されたという、その後確証しようもない事象だけが起こったのである。


散文(批評随筆小説等) 黒円(小説) Copyright  2015-06-11 21:43:25
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