川口晴美詩集『lives』を読んでみた
光冨郁也
川口晴美詩集『lives』(ふらんす堂)
2002.9.28発行
8冊目の詩集。表紙の、野原(あるいは花畑)にスカートの足を投げ出している写真がおしゃれ。第53回H氏賞候補作。2度目の候補も、残念ながら受賞を逃す結果になった。けれどこの詩集の価値を落とすものではない。
昨年の暮れに読んでから何ヶ月かが過ぎたが、感想として自分で納得できる言葉が思いつかなかった。
都電荒川線 「一人キリ」
電車に乗っていて大学時代の自分を思い返したりするうちに、「ない記憶をたどる」。
男・石田(石田吉蔵)を「殺して永遠に自分のものにする」という三十一歳の女(阿部定)の話がでてくる。この女とわたしが重なるようで、しかし「わたし」はその女にはならない。
(阿部定事件。昭和十一年、二・二六事件を背景とした時代。性器を切り取られた男の死体。布団の敷布に「定吉二人キリ」の血文字があった。タイトルの「一人キリ」はこの血文字に対比できる)
最終部分だけ引用しよう。
わたしは、殺さない。わたしは一人だから。思い出しても、誰かと会っても、一人、一人きりで、行くのだから。(「一人キリ」最終部分)
渋谷シネマライズ『リリィ・シュシュのすべて』 「少年壊れやすく」
十四歳の男の子と女教師の話。少年は万引きをし、生活指導室に女教師とふたりでいる。女教師は「この子もわたしのものにしてやろう」と思い少年に迫っていく。
その体のなかには痛みだけが詰まっているのだろう。だからこんなふうに体を折り曲げて、その痛みだけを大事に閉じ込めておこうとしている。鬱陶しくて、いらいらして、わたしは自分がもう十四歳じゃないことがひどく嬉しい。(「少年壊れやすく」部分)
女性というのはオドオドしている少年や立場の弱い男性を見ると、いじめたくなるらしい(笑)。女性にも裏返しの支配欲求や征服願望というのがあるのかもしれない。「体」「痛み」という言葉が力を持っている。自分もかつてはその年齢だったことに気づきながら。
わたしは生き延びたのだ。痛みばかり詰め込んだわたしの体はとうに後ろに遠ざかってしまった。(「少年壊れやすく」部分)
(『リリィ・シュシュのすべて』:映画。岩井俊二監督作品。カリスマ的女性シンガーのリリィ・シュシュに出会った少年の話らしい。わたしは観ていない)
コンビニストア 「夜歩ク」
コンビニストアという取り扱った題材が身近なものなので感想を述べやすい。
夜中にコンビニに行き、食べたいもの、欲しいものを探すが、なかなかそれを見つけ出すことができない。どこにでもあるコンビニ、何でもとりあえずそろっていているようで、でも本当に欲しいものはないような気もする。
コンビニがなかったら わたしはメロンパンが食べたかったと/思いこんだまま 夜に押しつぶされるばかりだったはず/だから/わたしは/夜の道を 次のコンビニの明かりへと歩き出す/歩いていく/ポケットの中で ぎゅっと手をにぎる(「夜歩ク」最終部分)
漂うようなライトな孤独を感じる。何かを探すような気分はわかる。この詩の中でわたしも主人公と同じように必要なものを探して次のコンビニに向かう気持ちになった。(コンビニに限らず、夜、欲しいものを探しに行くと、何故か手に入らないことがわたしには多い)
「lives」はこういう詩集だと、ひとことで言うのがわたしには難しい。それで三つだけ印象的なものを選んで紹介してみた。
「あとがき」にあるように歌人の大田美和さんとふたりでした試み、場所を指定し、相手と自分とが指定した場所で感じたことをもとに作品を書くというものらしい。
競作・コラボレーションという試みの詩集。その空間に生きている気分、気持ちというものが共有できるような感じがした。皮膚感覚でリアルな気持ちが実感できる。他者の生を追体験できた。
これで終わろうとしたのだが、「夜歩ク」に関連するおもしろい文章をHPで見つけた。最初、詩集中、この作品は決して重要なものではないような気がした。しかしそれは間違いだったかもしれない。
「詩を書くことは、夜中に一人でコンビニからコンビニヘさまよって歩く感じに似ている気もします。書きながら、歩きながら、私は私自身の生きている感覚を何とかつかまえようとし、そのことでこの世界とつながろうとしているのかもしれません。」
これはネットサーフィンをしているときに見つけた川口氏の文章である。
「夜歩ク」の世界はこの感覚なのかもしれない。
詩を読んでいると、他者の世界観の道筋をたどれることがある。それは「発見」といってもさしつかえがないかもしれない。まるでその世界観を自分のものとして感じられるかのように。
追記。『リリィ・シュシュのすべて』を川口さんから勧められてDVDで観た。川口さんはこの映画は嫌いらしい。
ヘッドホンでリリィ・シュシュ(架空のシンガーらしいがこの名前で実際にCD化されている)を聴いている14歳の少年。田園風景の緑の中のオープニングは美しい。簡単に事柄の言葉だけ羅列すると、万引き、いじめ、ひったくり、沖縄(西表島)旅行、旅人の交通事故、ケンカ、いじめ、脅迫してさせている売春、校内合唱コンクールのもめごと、そそのかしての集団レイプ、自殺(?)、リリィのコンサート、殺人、そして主人公は15歳になる。という話。(少年は実際にはコンサートでもリリィに会えなかった)
少年バスジャック事件がニュースに流れる時期。ネットのチャット(?)でリリィの話が交わされる。「僕にとってリリィだけがリアル」という。「僕にとってエーテルだけが生きている証」ともいう。「エーテル」の意味は不明。
画面の中から伝わるうっとおしい暗さはあるものの、それはうっくつした思春期の心象を象徴するものだと思う。過激な内容はでも現在では珍しくもない。自分の少年時と比べてもあり得ることだった。わたしは主人公の少年にある程度共感できる。
ただわたしにカリスマ的存在はいらない、というところがこの少年と違う。わたしはわたしの「リリィ・シュシュ」に出会ったことがない。他者を通して解放されたいとは思わない。
「僕にとってリリィだけがリアル」という感覚は持ったことがない。宗教に近い「リリィ」の神格化のよう。興味深い作品だった。嫌いではない、わかるような気がする。
(2003.4記)
*この文はもう一、二年も前に書いたもので、自分のHPに掲載していたもの。