三月のドキュメント
岡部淳太郎

      その日、私ははじめて人の死体
を見た。いまからおよそ十年前、三月二十六
日の金曜日のことだった。もちろんそれまで
にも祖父や祖母のそれぞれの葬儀に立ち会っ
たことがあるが、その時に遭遇したのは葬儀
屋によって整えられた遺体であって、生のま
まの死体ではなかった。その誰からの手も加
えられていない生の死体を、その日私は見た。

      その日、私は仕事を終えていっ
たん一人暮らしの部屋に戻り、翌日が土曜日
ということもあって、わずか数キロしか離れ
ていない実家に向かおうとしていた。週末に
は実家に帰ってのんびり過ごすのが当時の習
慣だった。その日もいつも通りに実家に行こ
うとしていたのだが、その時、突然電話が鳴
った。母からだった。妹が自殺したという。

      その時、私はその言葉をにわか
には信じることが出来なかった。ともかく私
は実家へと急いだ。バスに乗り、いらいらし
ながらバスに揺られ、実家にたどりついた。
そこには妹の死体がベッドに横たえられてあ
った。その顔は眼を見開き口を半開きにした
まま硬直しており、この世で最も恐ろしいも
のを見たような表情をしていた。自宅での変
死ということで警察が来ていた。私は彼等の
話を上の空で聞きながら、どうしても妹の死
顔が気になって仕方がなかった。しばらくの
間はそれが脳裏にこびりついて離れなかった。

      その時、私の世界は一瞬にして
変った。それまで確固としてあったものが脆
くも崩れ、終った。それを境に世界は色を失
いあやふやなものとなり、すべてが非現実の
蟻地獄の中へとのみこまれていった。数日後、
妹が死んではじめて電車に乗った時、痛切に
それを感じた。いまここにいる私は他の人々
と同じように会社に出勤しようとしているが、
その中には見えない嵐が荒れ狂っていた。人
人も新聞や本を読んだり眠ったりお喋りをし
たりしていながら、いまここにいる私につい
数日前に起こったことを知らずにいた。一人
が死んでも、世界は変らずにある。そのこと
の非現実感の中を、私はさまよっていたのだ。

      その日、表の通りでは桜の花が
咲いていた。三月二十六日、あれ以来その日
付を桜の開花の基準にしてしまうようになっ
た。春はもっとも残酷な季節。桜の花を咲か
せると同時に散らせる。それはある種の恩寵。
ここから新しいものへと入ってゆくことの、
象徴としての。だが、十年前の私はそんなこ
とにまで思い至ることはなかった。私はただ
呆然として、妹が受け取った現実と私が見逃
してしまったそれを、自らの裡で混ぜ合わせ
て、次の日に流すことになる涙のことにもま
るで考えが及ばずに、ただ桜を見上げていた。

      その日、私の妹が自ら死を選ん
だ。子供たちは駈けていき、大人たちは信じ
られない事実に立ちつくしていた。いまから
十年前の三月二十六日、金曜日のことだった。



(二〇一四年三月)


自由詩 三月のドキュメント Copyright 岡部淳太郎 2014-03-26 18:04:20縦
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3月26日