イタコを許す雰囲気
瓜田タカヤ
ラジオで青森トリビアというのが流れていた。
それによると、恐山には26歳のイタコがいるという。
ちなみに口寄せ(死んだ人間と話が出来る)は思ったよりも安く
3000円であった。
ぜひとも彼女にあって、大切な人
(ホークウォリアーか岩手のおじいちゃんか)
を下ろしてもらい話を聞いてみたいものだ。
イタコの口寄せは嘘だ。トランス状態を自分で作り出して
死者を降ろした気になっているだけであろう。
しかし、そのようなしきたりがこの津軽の山奥、恐山にて行なわれた歴史というものに
言い知れぬ柔らかい悪夢のような、塗りこめられた絶望の光を感じる。
真夜中、吹雪の山中でささやきあう津軽人の生活というものは
そういう「何か」を見てしまう事を許してしまうのかもしれない。
また宗教じみた口寄せという行為に町の指導者は、
疑心を飲み込んでしまったのだろうか。
死体と交信する術をそのまま放置してしまった精神は
どこかで死者との交信を認めたがっている人々が多数いたためであろうか。
きっとその人々の願いは、宗教的な習わしの肯定や
オカルトへの興味本位のうなづきとは違い、もっとシンプルなものであったろう。
それは冷却からの逸脱だ。
寒いのだ。
寒いのが嫌なのだ。
誰かが誰かを暖めなければ死んでしまうのだ。
死人がイタコを通して話しかける言葉により、感覚的にも
観念的にも身体的な意味でも、冷たく冷たく耐え切れないかも知れぬ寒さを
温めてくれる足しにでもなれば、また来年の春まで精神を維持できる妄想を
継続していられるからではなかろうか。
寒冷地。今日もごうごうと唸る風の音が
死体の声となってイタコらの唇に
積みあがるはずの無い言葉の炎を灯すのだ。
俺はこの土地で、家族が寝静まった深夜、
湯飲み茶碗に瓶ビールを注ぎ、寒いと言いながら
それを口に寄せた。