HHM講評
香瀬

【はじめに】

 2月15日をもちまして、HHMは完全に閉幕します。ご投稿くださった皆様、投稿作を読んでくださった皆様、現代詩フォーラムやTwitterでリアクションをとってくれた皆様、ありがとうございました。

 HHMでは「広義の作品論」を募集しました。ある何かについて書かれた文章のすべてを「ヒヒョー」と呼び、一般的な批評文の体をなしたものから、エッセイや独白、果てはそれ自体が虚構であることを以て文章として成立させているものまで、さまざまなタイプの文章が寄せられました。ありがとうございます。

 それでは、僭越ながらcaseの講評(と貰っても何の栄誉もない賞の授与)をもってHHMの閉幕とさせていただきます。順不同です。

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【講評】

「caseセレクト」(主催者の独断と偏見)
澤あづさ
葉月二兎『p (以下略)』を現像する
http://anapai.com/CGI/patio/read.cgi?bbs=patio&no=5

 主催者として、今回HHMというイベントをぶちあげて、こんなちっぽけなイベントであったとしても、その表出に一枚噛めたことがとても幸福だと思える投稿作はどれか、という観点から選びました。批評とは何か、という観点から見られるようなスキルはcaseにはございませんし、もしかしたら澤氏の投稿作は「いわゆる批評」とはかけ離れているのかもしれませんが、この投稿作にこめられた熱量は間違いなく本物であり、その熱量はただがむしゃらに放散しているのではなく、ひとつの目的のために費やされている、というcaseの見解には同意していただけるものと思います。

 葉月二兎「papilibiotempusolare-loremipsumanniversarium」を読解するための澤氏の総力戦。その読解対象である葉月氏の作品には、安易に見て取れる物語的な可読性はほとんどなく、揶揄的に言えばゲンダイシ的装いであります。そうした、読解そのものを拒んでいるかのように見えるスタイルへ偏執的にアプローチする/し続ける氏の読解の姿勢は、投稿作のまえがきにもある、「この詩すげえ惚れた」から来ているのでしょう。

 その読解スタイルから牽強付会の誹りを受けることも避けられないと思いますが、どんなスタイルも突き詰めればそれは素晴らしいものだ、と強く思いました。この投稿作を得られたことが、とても嬉しい。ありがとう。



「最多ポイント獲得賞」(現フォ内ポイントの総数) (13-02-11 19:00現在 13ポイント)
こひもともひこ
田中宏輔はクマのプーさんのミツをなめたか?
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267581&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 既存の作品をばらばらにし、それを編集するという手続きで以て作品となっている田中宏輔「Pooh on the Hill。」を、引用文と引用元の情報文とにばらしてしまう、という取り組みに驚きました。引用元という情報文の有無の比較を実際に行い、引用元というノイズが作品を作品たらしめているという、こひも氏の主張も、実際に田中氏の作品から引用元をすべて取り払ってしまう、ならびに、引用元の情報文のみを列挙してしまう、という操作を披露することで、首肯させられるものとなっています。これは、引用元を作品の巻末に注釈として付記する作品としては、「Pooh on the Hill。」という作品は成立しないのだということをあらわしており、こひも氏は文体・口調の不統一を、読者にユーモアとして受容させるためのギミックとして情報文を見ています。

 後半で述べられている、膨大な情報元から読者はそれぞれの経験を対応させて読むこと、言い換えればユーモアを担保するためのギミックとして設置されていたノイズを、自身の経験と照らし合わせて「情報の連なり」を構築していくことというのが、こひも氏のいう読解なのでしょう。前半に述べられていた、文体の不統一ゆえのユーモア/引用元の情報文が、作品内容とどのように対応しているのか、という点は個人的に食い足りなかったのですが、自身の態度表明ののち、実際に「Pooh on the Hill。」を読み解いて見せ、面白かったです。



「MVP」(あなパイチャットで最も話題になった)
広田修
「yo-yo「紙のおじいちゃん」について」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267351&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 まず、「詩のテクスト」について、広田氏はこう語ります。「詩のテクスト」とは、「言語そのものの在り方に注意を向け」ていて、作り出す「世界」は「世界」「と呼べないほど断片的だったり不整合だったりする」のですが、だからこそ「言語そのものの構造や形式を弄ぶことができて、読者を動かす言語そのものの可能性を十分発揮できる」ことから、「祝祭のテクスト」である、と。祝祭とは非日常です。規範的・一義的に定まるケの空間から、逸脱的・多義的に意味が混沌としていくハレの空間といえます。氏は、こうした規範からの逸脱を「読者の願望」と呼び、「詩は読者の願望充足の空間としても機能する」と述べ、yo-yo「紙のおじいちゃん」の読解を試みます。

 批評対象である「紙のおじいちゃん」の、人が紙へと変身してしまう現実には起こらない事態を、規範から逸脱することと見た筆者は、規範逸脱の契機の強調として、紙への変身前/後の祖父との「出来事の蓄積」といった形で記述されている時間に着目します。紙へ変身する前のおじいちゃんと、変身してしまった後のおじいちゃんとの出来事を記述することで、変身の暴力っぷりを強調し、紙への変身そのものにネガティブなイメージを与えているかのように読めます。しかし、「紙のおじいちゃん」では最後に「私」が「紙人形」になるというフレーズがあり、紙への変身そのものにポジティブなイメージもあるのではないか、と読者に思わせるような構成になっています。多義性や両義性、規範逸脱と祝祭など、前半の氏の「詩のテクスト」に対する表明と、後半の「紙のおじいちゃん」の読解と、うまいことブリッジできていない印象も持ちましたが、読み応えのある文章であるとともに、素敵な詩と出会えた本投稿作を一番に得られたHHMは幸せです。



「HHMを揺さぶった」賞
Debby
ビル・マックィーンの詩について。あるいは夢について。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267663&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 HHMは「広義の作品論」を募集します。まさか、「実在しない作品」を批評対象とする投稿作が来るとは想定外でした。今回、ルールを守っていただけない投稿作がいくつかあり、主催としては周知徹底ならびにわかりやすいルールの提示を行えなかった不徳のいたすところではありましたが、Debby氏のようにルールを破るのではなく裏をかくようなスタンスは、大好きですし大歓迎です。

 「実在しない作品」って? と、首をかしげた方もいるかもしれませんが、詳しくは投稿作に登場する固有名詞を各自ググっていただければと思います。氏も某所で言っていたように、批評対象と批評を、飼い主と飼い犬の関係、主従関係としてとらえたとき、本投稿作は飼い主から解放された飼い犬として成り立つことを意図されたものです。

 正直な話、本当に困っています。何かについて語っているもの、とヒヒョーを捉えていた自身の浅さを指摘されたようです。何かについて語っているもの、の、何か、を引いてしまった本作は、語るという行為そのものを物凄く前面に押し出してきます。むしろ、何かについて語っているもの、という表現のあり方そのものについてアプローチすることを目的とし、そのアプローチの仕方そのものをその目的のために選択したような感じです。そして、それはつまり、何を語るか、ではなく、どのように語るか、の問題でもあるわけで、物を書きそれをあまつさえ人目に晒すという恥知らずな行為に対する一種の警鐘だと受け取ることも出来ます。



「作品と個人の出会い」賞
るるりら
端麗に折りたたまれた見事な生活
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267743&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 ある作品について語るとき、作品内で用いられている語彙やその連関のみに注目するか、その語彙や連関が誘起する作品外のものもカバーするか、――作品の内/外とは何かという議論は抜きにして――どちらにしても読者の経験やセンスに依る部分は多い印象を持ちます。ある作品について語る際、個人的な感慨を吐露することをよしとしない、そんな傾向が批評にはあるのではないかとcaseの偏見が実はありました。こうした思いもあり、HHMではエッセイなども広く募集したのでありますが、本投稿作で、るるりら氏が山人「生活」から得られた感慨を述べる部分は、とても美しいなと思いました。

 詩の一部一部から思い浮ぶ情景を記述する箇所は、ややもすれば作中で描かれたイメージというより、氏がイメージする「生活」であるかもしれず読者は置いてけぼりを食ってしまいそうです。ですが、そうした読み方をしたのだ、なぜならわたしの経験とマッチしているのだ、というような氏の姿勢は決して嫌味でなく、むしろ、氏とこの詩とが素敵に出会えた、また、そうした出会いが言語化された、ということが感じられ爽やかな読後感を得られました。



「ポエムにロジックを読み取った」賞
浪玲遥明
雨女薬の「僕の母」について
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267909&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 のっけから失礼な話になりますが、caseはポエムというものを読者のことを意識しないで作られたもの、俺/あたしの魂の叫びを聞け!的なものと思っていました。しかし本投稿作を読んで考えが変わりました。何かしらの技術――それはJ-Popの歌詞などから学んだものだったりするでしょう――を用いたものは、読者を意識している、こんな風に読んで欲しいと思って書かれているということです。怠惰なわたしは、技術を使われているものであっても、それがどうして用いられたのかわざわざ確認することもなく、描かれた表面的な主題だけで読まず仕舞いでした。今では襟を正す思いです。

 浪玲氏が本投稿作で行ったことは、雨女薬「僕の母」に用いられている技術をひとつずつ拾いだし、それらから作品を逆照射しロジックを見出すことです。どのような作品であっても、そこに技術は存在し、そこからロジックを見出せる、ということ。本投稿作では、表題にある「僕の母」の作品分析だけで終わらず、類似した主題を扱う黒崎立体「ねじ」を併置させます。「僕の母」に比べ「ねじ」の分析はいささか駆け足な印象ではありますが、母親という立場の人間に対してどのような態度をとっているかという両作品の比較は面白かったです。



「エロスとエロさは違う」賞
木屋 亞万
エロい詩(感想文と妄らな空想)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=268024&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 なんかそれっぽい賞の名を冠しましたが、エロス(eros)ってのが愛ってのものと強く関わっているのに対して、エロさ(エロい)と日本語化された途端、下世話さや俗っぽさみたいなものが前面に出てきているような印象がcaseにはあるのです。

 木屋氏の投稿作は、取りあげた朔太郎「猫」も、中也「月夜の浜辺」も、下世話な好奇心をくすぐってくるよね、という氏の視点から新たに照射し、作品を別側面から見てみよう、と、そんな試みであるように思いました。男女の営み、つまりセックスしている最中や事後の情景として作品を眺めることが、広田氏の言うような詩の多義性、つまり、情報量が多くない詩が備える読者が想像できる余地の重要さを示しているものと思われます。

 また個人的には、「猫」では尻尾と三日月を男女の性器とみなしているのに対して、「月夜の浜辺」では「放られ、捨て置かれたボタン」というガジェットから、荒々しく扱う/扱われるという性差を読み取った点が興味深かったです。批評対象を更に列挙して既成の読みをエロさで読み替えて見せたり、既成の読み方としてどういったものがあるか先行研究に触れたりするともっとわくわくできそうと思いましたが、作品への視点を固定して「いわゆる文学作品」を揺さぶる読解は面白かったです。



「作品論ってなんだろう」賞
奥主 榮
学習塾に関する一考察
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=268185&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 まさか作品論の募集で学習塾の考察を投稿されるとは思いませんでした。Debbyさんの投稿作とは別の意味で驚かされました。せめて、各データにソースを載せていただければまだ募集要項を満たしていたと見なせるのですが、それもないですし……。考察と題されていますが、奥主氏が普段見知ったことに関する雑感なのかな、というのが感想です。

 今後の日本の教育がどうなっていくのだろうか、という多くの人が持っているであろう疑問に、氏が考えているものは、いわゆる「できない子」をどうにかすることが大事だ、ということです。このことに首肯はできるのですが、そうした取り組みはもう既にたくさん行われているということ(にも関わらず本投稿作では話題にあがらない、という現在の状況)に触れないのは何故だろう、と疑問を持ちました。

 詩なんか読んでる場合じゃねーよ、もっと現実を見ろよ、という揺さぶりとしてHHMにご投稿されたのだろうと思いますし、そうした発破のかけ方は大変クールだと感じました。わたし自身、文芸(お金にならない)に時間をかけることの無為さ加減に嫌気がさすときもあります。氏にはこの方向をもっと突き詰めた、主催者(それはわたしではないかもしれませんが)の裏を掻くくらい強烈な奴を、いつか発表してくれることを期待します。



「ヒヒョーが詩だっていいじゃない」賞
れたすたれす
限界暗号
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267826&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 caseにとっての理想の批評は、批評対象を知らなくても面白い読み物であるとともに批評対象そのものに触れたくなるようなもの、です。そのため、批評は必ずしも散文である必要はない、というニュアンスもこめて、HHMではヒヒョーという言い方をしてきました。したがって、たとえ投稿作が詩として書かれたものだとしてもヒヒョーとしてOKという立場をとります。

 ただし残念ながら、わたしは本投稿作を読んでも面白みを感じることができず、感じるためのモチベーションも湧かず、批評対象(ハイデガーの究極の問い?)にも触れたいという気持ちがわきませんでした。哲学上の何かを批評対象とするのであれば、批評対象を詳らかにしたうえで、参考文献も資料として末尾に置くのではなく適宜引用しつつ、韻文ではなく散文で書かれたものを読みたかったです。

 批評を募集している、と思わされる場所に詩を投げ込むことで祭を盛り上げてやろう。そのような気概が氏にあったのでしょう。大変嬉しく思います。詩と批評が渾然一体となった、読み物としてエンタメしながらクリティカルな視点を保有している作品を氏が書かれることをお待ちしております。



「作品そのものに向き合った」賞
かのっぴ
非連続
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267853&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 澤氏の読みを作品で用いられている語彙をハイパーリンクでつなげまくりながら作品世界を立体化させていく読解だとし、るるりら氏の読みを作品世界と氏の経験をリンクさせつつ作品世界の奥行きを増していく読解、と仮に見なしてみると、かのっぴ氏が本投稿作で行った読みは作品で用いられている語彙を字義通りに捉えつつ語彙と語彙の連関を作品内で完結した範囲で認めることで作品の見取り図を作り出す読解と呼べるでしょう。もちろん、これら三様の読み方が画然とした相違を持っているわけではありませんが、作品に向き合う上で三氏が選択したスタンスの違いとしては、大きく外れてはいないことと思います。

 ほかけ「色のない虹」で用いられている語彙のうち、「アイマスク」や「天の橋立」といった「虹」という言葉とは直接関係のなさそうな語彙であったり、「モノクロ写真」が直前の色彩の多様と対照的になっていたり、「色のない」と対応していたりする点などに着目しています。投稿作タイトルの意味がはじめはよくわからなかったのですが、氏が言う「詩とはそういうもの(素数のようなもの)だ」という言葉から、あらゆるものとリンクされていない=非連続だと気付いたとき、なるほどと思いました。



「言語と未言語の狭間」賞
安部孝作
「荒地」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=268239&filter=cat&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5

 いかいか「荒地」の読解を試みた意欲的な散文です。作中で用いられている「荒地」と「原野」という語彙を対比的に捉え、まず「荒地」を「言葉が根付か」ず、しかも「秩序がないどころか、混沌さえない」「語り終えた沈黙」として読み解きます。それに対して、「原野」を「穏やかで秘匿的で、触れられていないプリミティヴを保存」している、つまり「語られなかった、未言語化の領域」と捉え、何もなくなってしまった「荒地」を通過したからこそ顕現する「間とも沈黙ともいえる広大無辺な領域」と読み解いてみせます。

 対象作品を読み取る手つきはとても丁寧であり、「荒地」という言葉を、たとえば「荒地派」という言葉とリンクさせて読みの幅を広げるというよりもむしろ、作品世界で描かれているであろう言語との結びつき/結ばれなさみたいなものに迫ろうとしているのも好感が持てました。



「短歌と唱歌、〈子ども〉と〈大人〉」賞
よもやま野原(佐藤真夏)
しろいろさんと大森靖子さん
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267915&filter=cat&from=listdoc.php%3Fstart%3D30%26cat%3D5

 HHMの作例として拙稿をあげさせていただきましたが、僭越ながらその狙ったものの一つを申すのならば、文芸と文芸でないものをブリッジするようなヒヒョーを誘い出すこと、でした。詩と小説のような文芸同士の比較だけでなく、美術や音楽やサブカルと詩を比較することで、新たな視点や作品の別の側面、まったく違う畑の読者層の開拓などが実現できたらいいなと思っておりました。残念ながら力不足のためcaseの作例は面白いものではありませんでしたが、よもやま野原(佐藤真夏)氏の本投稿作は、〈子ども〉〈大人〉というキーワードを用いて短歌と歌詞をつなぎ、比較しながら読み解いていく刺激的なものとなっております。

 せっかくなので大森氏の歌詞だけでなく曲にも目を配った分析を見てみたかったな、とも思いましたが、冒頭に先行文献に触れて書き出しているところは、本投稿作ではじめて批評対象であるしろいろ氏に出会う人間に優しい書き方になっていると思い、嬉しくなりました。



「作詩の背景を見せる様は潔い」賞
01 Ceremony.wma
こんなことを考えながら作品を書いている
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267971&filter=cat&from=listdoc.php%3Fstart%3D30%26cat%3D5

 HHM投稿作唯一の自作の分析を行ったものを投稿してきた01 Ceremony.wma氏は、作品の読解というよりもむしろ、対象作品「祖母」を作った背景を、氏の祖母の葬儀と思われる場面、仏教について考える挿話、死に対する氏のスタンス、詩や言葉が氏にとってどのようなものかという独白などを混在させたものとして示してきます。作品にどのような機能を持つ技術をどのような効果を狙って配置してきたのか、というスキルの問題ではなく、あくまでも作品を作り上げた作者01 Ceremony.wma氏の生死・言語・世界に対する態度の表明というスタイルで書かれています。

 「浅い幸福と浅い絶望(浅い絶望と浅い幸福)」とは何でしょう。氏は抽象的に書いていますが、多くの人が日々悩み傷つき慰められ立ち直りまた傷つく、といったサイクルのことなのかな、と思いました。氏が「浅い幸福と浅い絶望(浅い絶望と浅い幸福)」というものが何か詳らかにしていない点、またそのため何故「許せない、許さない」のかという理由も曖昧となってしまう点があり、読みづらいところもありましたが、最後の段落にある「虚無すらない、なにもない」感覚の心地よさ(の憧れ)みたいなものには、ささやかな賛意を示したいと思います。



「個人的な思いをぶちまけろ!」賞
蛾兆ボルカ
無題
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267698&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 文章を書くことについては、どんな内容であっても、またどんな書き方であっても、それは誰にも配慮することなく野放図にやってしまって構わないと考えますが、それを人目に晒す場合、いつ・どこで・だれに・なに・なぜ・どのような方法で見せるのか、自覚的であることが大切なのではないかな、と個人的に思います。本投稿作はトキコ、カオリンタウミ、TASKEという3つの作品(作者)と、3つのURL(うち最初の作品に2つのURLがあり、最後の作品にはURLがありません)が付記され、しかしURL先の作品に対する言及というものはなく、蛾兆氏がこうした作品(作者)に出会えたことが、とても幸運なことであった、という思いが縷々と述べられたものです。

 「男は黙ってサッポロビール」ではありませんが、本当によいものを前にしたとき、好きなものを前にしたとき、人は言葉を発せなくなるのかもしれません。氏が本作で実践したことは、好きなものを提示し、それへの思いを述べるということしか出来ない、そうしたやり方でしか好きなものと向き合えない、ということであろうと思います。そうした姿勢自体を否定するものではありませんが、それでもなお言葉を用いて無様に足掻こうじゃないか!というのがHHMの主催者としての思いのひとつでした。氏が作品それ自体の魅力を、作品へ切り込むような形で語ってくれる文章をいつかものしてくれたら、是非読んでみたいなと思いました。



「有るのに無いものを語る」賞
ブロッコリーに似たもの
リチャード・ブローディガン『サン・ディエゴから来た四十八歳のこそ泥』について
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267776&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 ブローディガンは『アメリカの鱒釣り』しか読んだことはないので、本投稿作のタイトルを見てどんな作品なのか胸躍らせたところ、なんと表題の作品の引用がないではありませんか。不思議に思ったわたしはGoogle先生に聞いてみたのですが、返事は"A 48-Year-Old Burglar from San Diego"を調べろ、というものでした。

 Debby氏が架空の作品を引用しながら「いわゆる批評」的な装いを演出したことに対して、ブロッコリーに似たもの氏は実在する作品でありながら引用不可能の作品をタイトルに冠しつつ、無数の別のテキストを織り込みながらフィクションの装いを演出した、と言えるでしょう。「無いもの」を有るかのように見せるのではなく、「無い、という有り方をしているもの」を批評対象とした本投稿作の採った戦略は、フィクションを書くという行為についての思索をフィクショナルにつづるものでした。「いわゆる批評」的な体ではなく、フィクションという形でしか迫れない批評というものもあるのではないか、そうした実践のひとつだと思いました。



「華麗に圧縮する手つき」賞
古月
きみはゼロ年代最高のカルトホラー『バーサーカー』を見たか
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=268234&from=listbytitle.php%3Fenctt%3DHHM

 HHMでは批評対象にアクセスできるように必ずURLと出典を明記するようにいっていて、ネット上で触れられないものに関しては法で定める範囲で引用をして欲しい、とアナウンスしていました。そして、映画評です。ホラー映画評。B級ホラー映画です。こうした事態から古月氏がとったスタイルが、映画のあらすじをネタバレ上等で時に感動しつつ時にツッコミを入れつつ行っていくというものです。

 ある作品を要約するにあたって、その要約は個々人の価値判断に関わってきているわけで、つまり、作品の何を残して何を削ぎ落とすかという行程を要約という行為は経るわけですが、その際の残す/落とす判断は、批評的なものなんじゃないの?と思いました。動画は無理でも参照画像などがあれば文字だけではわかりづらい雰囲気ももっと掴めてよいと思いましたが、ガブリエル・バータロス監督『バーサーカー』の要約である本投稿作は氏の薀蓄やツッコミも相まって楽しいヒヒョーとなっております。



「ひとつの語彙への執着、思考の飛躍」賞
田中宏輔
語の受容と解釈の性差について──ディキンスンとホイットマン
http://atsusuketanaka.seesaa.net/article/316908094.html

 エミリー・ディキンスンとウィルト・ホイットマン、同時代の詩人でありどちらも同性愛・両性愛的な書き手として見られているこの2人の用いている「atom」という語彙の使用に、性差は影響しているのかという比較から、「atom」「atomy」の語彙を用いているシェイクスピア、ポオの詩に話は移っていきます。そこから、筆者が「atom」「原子」という言葉にこだわる理由や、ポオからヴァレリーとボードレールの名前が出てきたり、田中氏のツイッター連詩の経験について書かれたりしていくのです。文章は収斂することなく、出てくる固有名詞は他の固有名詞を経験や記憶から掘り起こしていく様はハイパーリンクのようであり、最後に自身を「無数の針」――Wired!――と呼び、本投稿作は終わります。

 澤氏が作品から無数にワイアーを張る配線的手つきで固有名詞を並び立てる手腕を見せるのに対して、田中氏の文章は、まるでそれ自体がワイアーで張り巡らされたオブジェのようで、そのオブジェは、るるりら氏が自身の経験と批評対象をリンクさせたように、田中氏の経験と深く結びついているようです。表題からテーマが飛躍する追記が書き込まれていくにも関わらず、氏の投稿作が一貫しているのは、氏がひとつの語彙への執着という態度を崩さなかったためでしょう。



「パクってもいいじゃない」賞
hegel9112
研究室を占拠せよ!
http://d.hatena.ne.jp/hegel9112/20130131/1359622931

 何かについて語るすべてのものがヒヒョーだと、この文章でも再三言ったように思いますが、本作では「荻上チキの発言」についてhegel9112氏の思うところを語ったものだと理解しています。この「発言」がどういった文脈でなされたものなのか、判然としないところではありますが。

 オリジナルを要求するお前らはコピーを積極的に容認する立場だろ何言ってんの?という苛立ちは十全に伝わるのですが、個人的には先の文脈の提示とともに、オリジナルやコピーとはそもそも何か、コピーを積極的に容認するとはどういうことか、コピーを積極的に容認する立場がコピーしたレポートを拒否するのはなぜか、などの考察があると、訴えたいところを更に見せ付けやすい文章となるのではないかと思いましたが、そんな冷静なこと言ってらんねえんだよという熱意を強く感じました。

 ラジオでの個人の発言を「作品」と見立てたヒヒョーは本作が唯一であり、面白い試みだと感じました。Twitterのひとつひとつが著作権を持った作品であるように、ラジオやテレビで発された個人の言動を作品と見るというのも興味深い視点でした。



「詩とか詩でないとか勝手に決めるなよ」賞
葉月二兎
Ex-(hibition) × Ex-(tinction)―― ni_ka, 反現代死
http://les-divagations-moderntique.blogspot.jp/2013/01/on-hhm.html

 ni_ka氏と反現代死氏の2人が現状では「詩」に回収されないのはなぜか、という疑問を紐解くように、両氏の作品の在り方、映像や空間芸術を美術作品ではなく「詩」と名指すとはどういうことか、ノイズやクズが「詩」に回収されるとはどういうことか、ということについて述べています。また「詩」と「ポエム」を区別することにいったいどんな意義があるのか、という葉月氏なりの疑問の呈し方も面白かったです。

 「『読む』という行為が遂行されうるものは全て『詩』と名乗る権利を持つ」という部分を読んだとき、作り手が「これは詩です」と述べ、それを「読む」ことのできる受け手が「そうだね」と言える関係を想像しました。それがたとえ文芸でなくても、ノイズやクズであっても、ポエムと揶揄されるようなものであっても、それらを「読む」ことの出来る人の前ではそれは詩である。それらを認めない――つまり、「読めない」――人たち、「詩」だけを大事にする立場からは認められなくとも。「詩」として回収されないni_ka氏と反現代死氏の作品の詩的な部分の魅力についてもっと語って欲しいなとも思いつつ、文章末にある動画を見て妙に納得したものでした。



「ヒーローは遅れてやってくる」賞

詩の背中
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=268242&filter=cat&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5

 る氏も述べているように、本投稿作は断片であり、ここから氏が批評対象であるNizzzy「天使」をどのように読んだのかというのははっきりと読み取れません。しかし、氏が引用している「冷たいまま重なりあうよ/ 左手と、右手が/生まれ変わる前の、不死鳥のように」というフレーズを、「死に際のハゲワシ/ではなく/生まれ変わる前の、不死鳥」と読み換えている点は注目してもいいのかな、と思います。

 氏が自身の現状に強く引き付けて「天使」を読んでいるのでしょうか。死を狙う生き物であるはずの「ハゲワシ」が「死に際」であると転倒しています。これは、「天使」内のフレーズである、死なない「不死鳥」が「生まれ変わる」という転倒したフレーズから連想したものでしょう。る氏はここで用いられている直喩の「ように」を外して読み換えていまいます。重ねる両手は祈りのような手のひらを合わせたものというより、自分自身を抱卵するかのように包み込む鳥の翼のように見えました。

+++

【おわりに】

 あなたの「好き」を、わたしにも、教えて欲しい。
 それも、魅力的な言葉で語ってくれたら、どんなに素敵だろう。

 HHMに投稿くださった作品を読んで、新たな作品との出会いがありました。
 また、魅力的な語り口でどきどきわくわくさせられるものもありました。

 第6回批評祭としてのHHMはこれにて閉幕です。投稿してくださった方、お読みくださった方、ありがとうございました。非参加/未参加の表明作品、KSMやスピンアウトをしてくださった方、めっちゃ嬉しかったです。ありがとう。悪ふざけの気持ちって大事だよね! 茶化してなんぼだと思います。みんなもやろうぜ! 宣伝・広報、システム準備や管理などしてくださった方、あなた方がいたからHHMは、「バンド名だけ決まって一度もスタジオに入らないまま解散する中学生」のような事態にならずにすみました、本当にありがとう。そして、目に見えるだけでなく、目には見えないかもしれないものも含めた、何かしらのリアクションをとってくださったすべての皆様に感謝いたします。ありがとうございました。



2013,02,15 
香瀬 拝


散文(批評随筆小説等) HHM講評 Copyright 香瀬 2013-02-15 15:04:52
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