ハンカチ一枚
カンチェルスキス








 彼は助けを求める声さえうまく出せなかった。


 雨の中、傘を差して立っていた。
 温かみのある灰色の海が暗闇に変わるまでそこに立っていた。
 服の色は変わっていた。





 風も雨も激しくなっていた。
 街路樹の枝が歩道にいくつも落ちていた。
 彼は埋立地の道を左に曲がろうとした。


 どこからか猫の鳴き声が聞こえてきた。
 一匹だった。
 通り過ぎたばかりの街路樹の下の草むらから
 聞こえていた。
 雑草をかき分けると、小さな、本当に小さな
 黒猫のこどもが必死で助けを求めて鳴いていた。
 彼の姿を見ると怯えて草むらの奥に逃げ込んだ。


 親猫はどこにもいなかった。
 彼は手を伸ばし黒猫をつかんだ。
 彼の手のひらにおさまる大きさだった。
 目ヤニがいっぱいついていて、体の毛も
 ぐしゃぐしゃになっていた。


 体に手をあてがうと小刻みに震えてるのがわかった。
 かなり衰弱していた。


 彼はどうしたらいいのかわからなかった。


 彼は黒猫を元いた草むらに戻した。
 振り返ると、黒猫は草むらから出てきて、
 必死に鳴きながら、彼を追いかけてきた。
 あまりにもちっちゃな生き物が
 彼を追いかけてくる。
 彼は振り向くのをやめた。しだいに駆け足になった。
 角を曲がると歩いて、駅に向かった。




 ホテルの玄関から何人も人が出てきた。
 男も女も着飾っていた。
 パーティーが終わったばかりのようだった。
 仲間から少しはぐれてはしゃいでる者が
 何人かいた。
 そのうちの一人と彼はぶつかった。
 男は何も言わなかった。
 彼も何も言わなかった。
 男は仲間の中に戻っただけだった。
 彼はホテルの一階のトイレで小便した。
 それだけで出てきた。




 彼は黒猫のところに戻った。
 黒猫は植込みに座っていた。
 彼は植込みに腰かけ、シャツの下に黒猫を入れてやった。
 黒猫は自分から入っていった。
 そうされることをずっと望んでいたみたいだった。
 自分の体を舐めだした。ときどき彼の顔を見上げた。
 彼が指を差し出すと母猫の乳を吸うみたいに
 吸いついてきた。


 しばらくそっとしておいた。
 雨はやみかけていた。
 肌寒い夜だった。
 会社帰りの自転車の男が何度か通り過ぎた。
 黒猫の体はまだ小刻みに震えていた。





 彼は立ち上がって、黒猫を植込みに戻した。
 タオル地の水色のハンカチを黒猫の足元に敷いてやった。
 黒猫はそこにちゃんとおさまった。
 何も言わず、前足をそろえて、彼を見上げる。
 彼は歩き去った。


 
 それが彼にできる精一杯のことだった。








自由詩 ハンカチ一枚 Copyright カンチェルスキス 2004-12-23 17:15:46
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