ある夢のお話し(エッセイ)
Lucy
先におことわりしておきますが、これは夢の話です。
夢に見た出来事なのに、本当にあったことのように胸に刺さって、忘れられないような夢を、時には見ることがあるでしょう。
特に寝覚めの一瞬前に見たような、途中のいいところで夢だと気づいてしまい、心残りなまま現実世界に引き戻されてしまったような、そんな体験は誰にもあるのではないでしょうか・・。
私の夢はこんなふうに始まります。
昔、アート好きの友人に誘われて、街の小さなギャラリーを借り、工作展のようなものを開催したことがありました。
「灯り展」というタイトルで、羊毛や和紙やガラス、陶器、紙粘土、発泡スチロールなどさまざま素材を使って、「灯り」をテーマに自由に作ったものを持ち寄り、楽しい展示会になりました。
そのころ幼稚園や、小学校低学年ぐらいだった子どもたちも連れて行って、飾り付けを手伝ってもらったりしたので、彼らは思いのほか楽しそうに参加していて、終わってからも「またやろう」などと言っていました。
夢の中で、私はその時の友人達と博物館の様な古い大きな建物を訪ねていたのです。
その建物の一室に、あのときのギャラリーが、私たちの「灯り展」ごとそのまま保存されていたのです。私たちは驚き、歓声をあげてその展示室に入り、懐かしがって工作のひとつひとつを見て歩きました。
それは、落ち着いて記憶をたどれば、どこか私たちが作ったものとは少しずつ違っていたのですが、その中の一つに犬小屋くらいの大きさのドールハウスがありました。小窓から中を覗いて私は息をのみました。中は明るく陽射しがあふれ、美しい砂浜がひろがり遠くに海も見えていました。
そこにちょうど二歳か三歳だった私の二人の息子たちが、あの頃のままの姿で、青や赤のシャベルやバケツを持って砂で遊んでいたのです。
二人は満面の笑顔を私に向けました。私が「君たちずっとここにいたの?」ときくと、にっこりうなずくのです。「楽しいの?」ときくと、「うん、たのしい」と言って、本当にかわいく笑っています。
私はなぜか安心し、心の底で納得しました。一体どこで入れ替わったのかと思っていたけど、この子たちは小さいままで、ここにずっといて、そして幸せだったんだ。良かった。本当に良かったと。
みんなと一緒に展示室をあとにして、建物の出口へ向かっていると、友の一人が言いました。「あの子たち、あのまま置いて行っていいの?」「いいのよ」と私は即答しました。「だってあんなに楽しそうに笑っていたもの。ここに居て楽しいのならそれでいいのよ。」と。
するともうひとりの友が、私の肩越しに建物の奥を見て「本当にいいのか?あれをみてごらん。」と言うのです。
ふりむくと、古い大きな博物館の中は、すでに夕闇がたちこめていて、吹き抜けになった階段の上の廊下に館長らしき人が懐中電灯を片手に当惑した表情で立っており、その後ろの暗がりにぼーっと光る空間があって、その中にさっきの私の子どもたちが、ふたりで心細げに立っているのが見えました。
私が驚いて階段を駆け上がり彼らのもとに着くより早く、二人は大声を上げて泣きじゃくり始めました。私は慌て、館長を押しのけるようにして二人に向かって両手をさしのべ「大丈夫です。うちの子です。うちの子なので連れて帰ります。」と言いながら二人を抱きかかえようとした時、頭の隅で「これは夢だ」と気づきそうになりました。
たいへん、目が覚めてしまう前にこの子たちをこの腕の中に抱きしめなければと私は本当に焦りました。「おいで、おいで、お母さんと帰ろう」と私は叫び、二人の子どもは私の腕の中に泣きながら飛び込んできました。良かった、まにあったと、私は思い、「ごめんね、ごめんね、さびしかったの?帰りたかったの?かえろうね、お母さんと帰ろうね。」と泣きながら言い続けながら目が覚めました。
目が覚めてはっきり夢だとわかっても、さっきの夢の方が現実よりもずっとずっと濃いリアリティをともなって私の胸を締め付けていました。
寝坊した私はのろのろと起き出し、夫のために朝食と、お弁当の支度をしながら口をきく気にもなれませんでした。さっきの夢のことで頭の中がいっぱいでした。混乱し、動揺したままの頭で夢の続きを考えていました。
私はあの子たちを家へ連れて帰ってもう一度育てるつもりだったのだろうか?大学生になり、それぞれ家を離れて暮らす息子たちが帰って来て、なんというのだろう。
「母さんあの子たち、誰?」ときかれた時、私ははじめて矛盾に気がついたのだろうか。それとも平気で「あれは途中から君たちと入れ替わった幼い時の君たちなのよ。そうドラマで言えば子役なのよ。」と言うのだろうか。
「いい加減にしてくれよ、俺たちここに生きてるじゃないか。」と息子たちは言うだろう。
それならば、あの二人の幼な子はなんだったのだろう?そこまで考えて私は愕然としました。それを我が子と信じて微塵の疑いも持たなかった自分の思い込みが怖いと思いました。夢の中の私が囚われていたものとは何だったのだろう。
今市子という作家の「百鬼夜行抄」というコミックのことを思い出しました。あの中に出てくるような、妖怪だったのかもしれない。妖怪だろうと、魔物だろうと、それが我が子の顔をしていると言うだけで、私は簡単に騙される。絶対に騙されると言うことを、確信しないわけにはいきませんでした。
それにしてもあの暗がりのぼんやりと浮かんだまるい灯りの中で、泣いていた二人の泣き顔が頭に焼き付いて離れない。「さびしかったの?おかあさんといっしょに帰ろうね」だなんて、そんな言葉が自分の口から出たことが信じられない。おそらく寂しいのは自分なのだ。私が囚われているのは盲目の母性であり、幼い子どもを育てていた頃のいとおしさの記憶に今も縛られているんだろう。そんな深層心理なのだと考えて余計に寂しくなるのでした。
しだいに冷静になりながら私は思いました。こんなことでは「おれおれ詐欺」の類にはまちがいなく引っかかるだろう。誰かが息子の名をかたり、「かーさん助けて」と泣き声で電話をかけてきたりすれば、たちまち盲目の母性が私の中から現れて、「大丈夫だよ待っていなさい、お母さんが助けてあげるから。すぐに振り込んであげるから!」と、矛盾にも気付かずに、死に物狂いで財布とキャッシュカードをつかみ、髪振り乱して走り出すのだろうなと・・・。
本当に、気をつけようと思いました。