ともだち
片野晃司

ホームを切り裂いて列車がページを捲っていく。同色の
制服に制服を重ね着してずきずきと圧密する、頭痛がちな
通勤電車のようにきつく綴じられた紙の隙間を押し開き、ぼくと
膝頭から胸元まで触れるほど巧妙に組み合っているきみに、この
前のページの出来事をぼくは教えないし、この
次のページで何が起きるかもぼくは教えない。たとえば

《永きにわたりご愛顧いただきました言語ではございますが》

ぼくたちを充満したこの通勤電車が鉄橋を渡り、腰つきの
丸みを帯びた川筋沿いに小さくなっていく精密の先へ視線を辿ると、雁行して
近景から遠景へと追い越しながら高速度できみと並走する、鈍色の
ふたつの頂点をもつ山影がみえる。きみは
あの山が見渡すこの平野を覆う蛹の殻のように、すべてが
言語で説明されているのを見ることができるだろう。でも
それはあの山から見渡せるこの平野に限ってのことだ。その
先のことはぼくにはわからない。きみとぼくの
すべてのはじまりがどこにあって、きみとぼくの
すべてのおわりがどこにあるのか、いま
こうして詰め込まれ向かい合っているぼくにはわからないこと。たとえば
この先のページのことをいまぼくが教えないように。充満した
ひどくひといきれにもみしだかれるこの通勤電車の、きみに
向かい合い触れ合うぼくときみがこれまでになく密着して、充満した
ぼくときみの狂おしく重複する説明たちが殻を軋ませるとき、きみは
その殻のなかですこし身じろぎをする。たぶん

《永きにわたりご愛顧いただきました言語ではございますが》

誰かが同じことをどこかで説明している。つまり
この通勤電車の同種の細胞の集合体のように渾然と揺れている、その
一部を摘出して、どれかがぼくであり、どれかがきみであり、こうして
膝の間から胸元までが触れるほどにきつく組み合っているあいだ、これが
ほんとうにぼくたちなのか、そもそも
ぼくたちはほんとうにともだちなのか、その
疑念がきみについての説明にはじめから含まれている。ぼくは
ここにいて、ぼくのことをきみが説明できるのなら、ぼくは
説明そのものであり、これは説明そのものだ。たとえば
ぼくがきみを説明できるのなら、きみは
説明そのものであり、ここにあるこの説明がきみだ。いま
ぼくの胸がきみの胸にふれる、その
感触を言葉にしてしまうとき、ぼくは
きみを覆う蛹の殻に触れた気がする。きみがいま
蛹の殻のなかですこし身じろぎをした気がする。扉が開き

《永きにわたりご愛顧いただきました言語ではございますが》
《このたびサービスを終了させていただくこととなりました》

どこかで聞いた説明が入ってきてすこし狭くなる。扉が開き
どこかで聞いた説明が入ってきてまた狭くなる。きつく
綴じこまれてぎりぎりと頭痛がちな制服のすきまで、ようやく
きみとぼくのこと、走り去っていく風景のこと、すべての
ことがらが説明され尽くされたことがわかる。いま
ページの隅で通勤電車は停止して、きみは
このページを閉じようとしている。



(詩誌ガニメデ五十一号掲載 2011年4月)


自由詩 ともだち Copyright 片野晃司 2013-01-06 00:42:27
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