「作詞と詩と歌とリーディング」という原稿が出てきた
松岡宮

MOというメディアが、むかし、有りました。1.3ギガくらい1枚のディスクに入るので、「わあ、凄いたくさん入るな〜」という感じで、バックアップに使っておりました。

このたび、SCSIカードが見つかり、MOがふたたび読めるようになりました。すると、10年以上昔に書いた文章が出てきました。

たぶん、2002年ごろ、詩人の「ちょり」さんに頼まれて書いた文のように思いますが、さだかではありません・・・。

がんばって書いた記憶がありますので、こちらに再掲させていたします。
「、」が「,」なのが、あの頃のわたしっぽいです。

<ここから再掲>

こんにちは,松岡宮というものです。このたびは原稿の依頼を下さいましてありがとうございます。いろいろと考えたのですが、自分自身が過渡期にあるようにも感じたので、自分が歌詞を書いてきたことについて振り返ってみたいと思います。なお,私はただのアマチュア作詞屋です。というよりも詩人のイメージが強いかもしれませんが,自分のなかでは詩と作詞を分けないように努力していますのでここでは作詞を切り口に書かせていただきます。

私は中学生の頃からいろいろな歌詞を書いていました。今となっては恥ずかしい作品ばかりですが,私が10代であった80年代はアイドルポップス全盛期であり,そういった作品がもともと好きでしたので,アイドルポップスの作詞家になれたらいいなあ,などと夢見ており,歌詞もそのような系統のものでした。

そのころは,自分なりの作詞のルールがありました。それは「字数をきちんと整える」ということです。作詞をきちんとやろうという人間にとっては当たり前のようなことですが,私は特にこの法則をしっかりと守ろうと,さもなくば歌詞として失格だ,などと思っておりました。そのためには,正しい字数で的確な表現をできるように,語彙を豊富にしておかねばなりません。また,字数のあわなさを「そう」とか「ねぇ」とか「ah」などで補うのは作詞者として失格だと勝手に思いこんでおりました。私は思いこみの激しい性格なのです。自分が耳にするプロの作品が必ずしもそうではないのに,自分だけでルールを作っていたのです。それから,歌にはだいたいAメロ,Bメロ,サビがありますが,Aメロには心情よりも情景描写(客観情報)を,Bメロには視点の転換を,サビにはリズム感の強いインパクトのある言葉を(意味はそれほどなくても良い),という風に,自分なりに良いと思われる基準をもち,その通りに書いていました。

そのころの作品を少し掲載します。

「夕陽はふりむかなかった」

(前略)

駅へ向かう背中 そよ風に髪なびかせ
肩に降る落ち葉に なぜ気づいてくれないの

恋じゃなかった頃
それならば私 走って
声かけるのに

(後略)

これは既存のアイドル歌謡に合わせて歌詞を組み立てていったものです。内容や描写はともかく,ちょっと言葉が硬いなあ・・・・字数あわせに必死だったのだろうと思います。20歳くらいまでそんな感じで,ノートに歌詞を書きためていました。歌詞づくりはこのように厳しく方法論的に推敲を重ねたりしていたのに,詩は自分の心の赴くままに,気軽に書いていました。しかしどういう訳か,推敲を重ねた歌詞よりも,好き勝手に書いた詩のほうが友人たちには好評でした。

その後,いろんな歌を聞くにつれ,歌の歌詞というものは,単に字数を合わせればいいというものではないという風に感じました。字数が合っていることは,もちろん十分条件ではないのですが,必要条件でもないのではと思い始めました。つまり,1番と2番で字数がそろっている必要はなく,1番で3文字だった部分に2番で6文字入っていて,それがとても気持ちよかったりする場合もあるのでは,と思うようになりました。

そんなふうに,一度自分の中での歌詞の善し悪しを決定するルールを変えてしまうと,何が良い歌詞なのか?ということが混乱してきました。今でもそれは混乱したままなのですが,ともかくも混乱していることを自覚しています。

ひとつ思っているのは,歌詞を評価する場合,やはり曲がついていないと何ともいえないな,ということです。ありがちなつまらないような単語が,曲をもらうことでイキイキと輝くことがあります。なので,歌詞に対して何かコメントを書かせていただく場合には,その歌詞がどのような曲を求めているのか?その曲にあわせたらその歌詞はどんなイメージを聞き手にもたらすだろうか?ということを考えています。

それから、歌詞というのは詩以上に私達の生活に根付いており,「歌詞とはこういうもの」というセオリーがある程度構築されていることから,作者のオリジナルな感性がそのまま出て来にくいものだと思います。歌詞をみれば,その方がどんな音楽を好むのか,だいたい判ります。ですので,歌詞にコメントを書かせて頂く場合には,その方のバックグラウンドになった歌のジャンルはなんだろうか?ということと,その方自身の個性の両方を見るように努力しています。私自身が歌詞を書くときも,自分は80年代アイドル歌謡で育ったので,そういったノリやセンスは,きっと一生ぬぐい去れないのだろうと実感しています。

歌詞は曲がついてなんぼ,だと思って,最近は自分で曲をつけて歌うようになりました。そうすることで実感したことがあります。それは,歌詞と詩は,実はとても仲良くしたいのかもしれない,ということです。今まで,歌詞と詩は水と油みたいに解け合わない世界だと思ってきました。作詞の世界では「詩のような歌詞を書くな,聞き手に考えさせるような歌詞ではいけない」と言われますし,詩の世界では「歌詞ならいいけど詩としては深みがない」というふうな言い方をされることがあります。しかし,創作の根本にたちかえり,自分は何が好きで何に感動するのか?ということをあらためて問い直すと,その自分が良いと感じるものの本質は,歌詞だろうと詩だろうと同じものであるという気がします。それを実感させてくれたのは,ポエトリーリーディングとの出会いだったかもしれません。どんな詩でも曲はつけることができるし,どんな詩でも歌える。歌えないにしてもリーディングはできる。リーディングはリズムだ,メロディだ,音楽だ。そう思うことで,歌詞づくりの際の形式論から少し抜け出せたように感じています。いや,形式は大事だとは思うのですが,それは自分なりの萌えいずるものができてから考える問題です。耳で言葉を味わうときの感動は,形だけではなく,また内容だけでもなく,言葉と音の出会うところの快感なんだろうと思います。私は作者のこころから厳しく絞って絞って思わず漏れだした言葉・音・声を聞きたいのです。

そのような観点から自分が感動する作品は,正直いってこの世界にたくさんあるわけではありません。作品を出した作者の思いと受け取る自分の感性がシンクロするとき,きっとその作品をいとおしいと思うのでしょう。今後も,自分にとって何が好きで良いのか,ということを問いかけ続けながら,まだまだアマチュアレベルな自分の創作を鍛錬してゆければと思っています。
<再掲ここまで>


散文(批評随筆小説等) 「作詞と詩と歌とリーディング」という原稿が出てきた Copyright 松岡宮 2012-11-26 21:46:01
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