犬のこと
はるな


実家にはいま父と母が住んでいて、いまは、黒い子犬も住んでいる。
母が名付けた、「宝籤」という意味の名前を呼ぶと、尻尾と耳をすこしふって転げてくる。それも、この二週間でずい分としっかりした。
宝籤がうちへきて一週間経ったころに、わたしは彼女(女の子なのだ)にはじめて会った。そのときはまだほんの赤ん坊で、足はみじかくって、時おりだす鳴き声も、―鳴き声というよりも泣き声みたいな―、どちらかというと猫のような甲高いものだった。
ほんとうに、熊の子みたいになめらかに黒く、胸の真んなかだけが白い。それから、尻尾のほんの先に、数えられるほどわずかに白い毛がある。いつか抜け落ちてすべて黒くなってしまいそうだけど、今までに三度会い、その三度とも、何かのまちがいみたいに尻尾の先に白い毛がある。すごくおしゃれね、と言ってやると、はたりと振り回してみせびらかす。
母も宝籤も、シャンプーが好きなので宝籤の毛はいつもふんわりとしている。けれど、そこに鼻をうずめてもシャンプーの匂いはふしぎとしない。宝籤の匂い、としか表現できないようなあたたかい匂いがする。
とてもほんとうとは思えないくらい、暖かい、心地の良い、すてきな匂いがいつもちゃんとするので、そのたびに泣きそうになってしまう。

わたしたち、犬がかわいいなんて、知らなかったね。と、母に言うと、犬がかわいいのじゃなくて、宝籤がかわいいのよ、と相好を崩す。父がいやがる宝籤にマスクをつけようとするので宝籤がじたばたとあばれている。
犬の、四本の足が、フローリングをたたく音。
たんたたんたんたたんたたんたんたん
はじめて聞いた音だな。と、思っていた。小気味よく、にぎやかで、それでいて邪魔にならない。優しげというのとも違う、騒々しくもないし、なんだろう。
たんたたんたんたたんたたんたんたん
目を閉じて、思い出した。むかし、どこへいてもすぐに眠ってしまう子どもだった。たとえば祝い事とか、親戚の集まりとか、子ども会の催しとか。周囲は知っている人たちで、ちかくに母か父か姉かの誰かはいて、わたしはうとうとと眠たくなりながらも安心して、オールのない小舟に―それも、長い紐でしっかりと岸辺に舫われている小舟に―乗せられたような心地で、ゆっくりとそのにぎわいから、色から、においから、離れてゆくのだ。
宝籤の足音やにおいは、わたしにそういう心地を思わせる。
ずい分なつかしくて、愛おしい心地だ。



散文(批評随筆小説等) 犬のこと Copyright はるな 2012-11-16 08:41:21
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