I'm hungry
アオゾラ誤爆

 愛でなければなんだろう、と、恥ずかしげもなく考えていた。

 胸の奥が熱く、むしろ痛く、つよい磁石にひかれているかのように、その方角へ向かおうとすること。どうしてもそこへ行きたいという、あくまでも動的な欲。
 立ち止まっていられる気がしない。今すぐにでも、たどり着きたいとおもう。身体も、心も、頭のいちばん理性的な部分をも含んだ、私のすべて引き連れて。


 カフェラテ、ホット、スモールサイズ。
「お待たせ」
こぎれいな円いテーブルに、ふたつのカップが、ことりと置かれた。行きつけの、というのはやや恥ずかしいチェーンの喫茶店。地下一階、いつもの席。恋人はどっしりとした濃紺のソファに深々と腰かけ、ため息をついた。そしていつものように充電器をセットし、スマートフォンをいじる。武骨な指先が器用にディスプレイの上をすべる。視線はまだ合わない。
 すこしだけ緊張しながら、カフェラテを啜った。

 私は恋人に心底惚れているので、喫茶店などで向かい合って座ることが、すこし苦手だ。この言いぐさはおかしいのかもしれないけど、つまり、じっと見ていると会話すらままならない状態になってしまうということが、よくある。
 よく日にやけた腕や、健全なあごのライン、うるんだ瞳と、うつくしい睫の落ちる影。苦み走った表情の、くちびるの端に、ほんのすこしだけ浮かべる、いたずらっぽい子どものような甘やかな微笑み。
 それをぼうっと見ていると、ひどく腹を空かせたけもののような気分になる。むしろそれは、見られているという作用かもしれない。私は彼をほしくなる。それでいて手を出せないおくびょう。待たれている、という圧力。どうしてもほしいものに、貪欲に牙をむくということ。それにまつわる呪縛で、いつも泣き出しそうになる。
 好きなひとの顔を見られない。そんなふうに書いてしまえば、ほほえましい少女の苦悩かもしれない。でも私の感情は、少なくとも、そのようにくすぐったい類のものではないような気がしていた。もっと、壮絶で、身体ごと揺さぶられるような、葛藤なのだった。

 のどぼとけが動くのを見ていた。いつも彼は冷たいものも、温かいものも、ずいぶんとゆっくりと飲む。いかにも嗜むといったふうに扱われるその液体を、私はしばしばうらやましいとすら思う。
「どうしようかな、飛行機でも、バスか、新幹線は帰りに使うし」
「なにを重視して決めるの? 快適さ、はやさ?」
「そうねえ、ただ、どれも一長一短でさ。飛行機は乗りたい機体があるけど、伊丹に行くのしかなくて。僕は関空がいいんだけどねえ」
ふうん。必要以上に興味は持っていないかのような相槌をしながら、私の頭の中は甘い分泌液でいっぱいになっていた。ものごとへのこだわりの強さ、というのは、私が恋人について最も好きなところのうちのひとつだ。移動手段にも、筆記具にも、寝具にも、彼は彼なりのこだわりをもって真摯に接している。その姿勢はいたって大人で、尊敬すべきもののように思える。もちろん、融通の利かない少年のように振る舞っているようなときでさえ、ひどく可愛く愛すべき様子であることにかわりはないのだけれど。

 今日は恋人の仕事の終わりに待ち合わせていたので、一緒にいられる時間はそんなに長くはなかった。あっという間にカフェラテはなくなった。帰らなくてはいけない頃合いだ。
 時間の経つはやさがうらめしいなと思いながらカップを片づけようとすると、恋人がしずかに私を制した。お決まりのことなのだけれど、何となく優しい気持ちになる。ありがとう、と言って私は椅子を立った。
 セルフサービスの喫茶店や食事処なんかで、恋人は必ず私の分の下げ物まで片づけてくれる。大丈夫、やっておくから、という言葉には、無駄な押し付けがましさはない。同じように、私の荷物を持ってくれるときや、車のドアを開けて私を助手席に乗せてくれるときもそうだ。いたって自然に、そうであるべきと思わせてくれるような仕草は、いつだって感動的でさえある。疲労がにじんでいる瞼すら、よくしつけられた犬のようにクレバーだ。私は髪を撫でたくなる。いとしい、といういっぱいの気持ちで。
 そして私は、はっとする。自分の欲に気づくのだ。撫でたい、ふれたい、触れ合いたい。私そのものがどこまでも底なしの穴になったような気持ちになる。

こわい。

 その響きは、とてもよく私の心をうつしだす。私はこわいのだ。だいすきなその身体や、みえないはずの心を、そっくりそのまま手に取って胃の中に押し込めたいと渇望していること。そんなあられもない自分の欲が、ほかでもない彼の眼にさらされてしまうことが、とてもこわい。恋人の愛らしいまっすぐな眼の中に映る私の、まるっきり空腹で手順を知らない世間知らずさを、彼という人はどんなふうに感じていることだろう、と。

 階段をのぼるとき、恋人は私の身体に触れていた。あどけなく大人げない方法で。どんな葛藤も吹き飛んでしまうような魔法の温度で。少年は言い訳を必要としない。無邪気にふれあうことに罪はなく、あるのは華々しいお互いの機能だけだ。
「ね、好き」
「うん? 僕もだいすき」
柔らかく、やさしい耳ざわりの声。にっこりと笑っていたんだろうか。表情は見えない。恋人の言葉はすぐさま温度や湿度にかわり、私の身体中に浸み渡っていった。熱い、痛い、足りない、もっと、冷たく、ひどく、くるいそうな、まるで、空腹だ。

食べたい。

 ふざけた考えかもしれない。だけれど真っ白になった頭で、恋人の存在だけが膨れ上がり、いつまでも弾けない。
 愛でなければなんだろう、と、恥ずかしげもなく考えていた。


散文(批評随筆小説等) I'm hungry Copyright アオゾラ誤爆 2012-08-04 04:10:54
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