去年の駄文2 占いの人称代名詞
佐々宝砂
(去年の夏頃書いたやつ)
このあたりには工場が多くて、仕事自体は割とたくさんある。ただし、選ばなければ、の話。それでも仕事があるのはありがたい、というのも、キツイ仕事の工場で出逢う女の子たちは、みな県外からきた子たちばかりだから。前にいた工場には青森の子が多かったし、いまいる工場(携帯電話工場)では、沖縄の子がとても多い。頭悪そうな、化粧の濃い、タバコばかりふかしてる、でも気はよい、意外に素直な女の子たち、私は彼女たちのことが好きだとおもう。
ああいう子たちに読んでもらえるような、そんな詩が書けたら。H氏賞もいらない。思潮社から詩集を出すなんてことも、なくていい。一流詩人にならなくていい。教科書に載らなくていい。いわゆる権威ある詩人にほめてもらわなくてもいい。そんなもん詩じゃないと言われてもいい。ああいう子たちに読んでもらえるような、そんな詩が書けたら。
こないだ一行占いの仕事をやって、120考えたところでつまって、友人の知恵を借りてどうにか約束の200をこなした。つまり200書くのはちょっと苦しかったわけなんだけれども、それでもあの仕事は楽しかったな。ああいう一行占いを楽しむのは、きっと、工場で出逢うような女の子たちなんだもの。
根も葉もない一行占いの文面は、しかし、詩より重い意味を持つ。遊びだなーと思いつつも、占いを見た人はちょっとは内容を気にする。なぜ気にするか。それは、占いの文面の主語・主題が、常に「あなた」、つまり読者である「あなた」だからだ。「あなた」を主題にして、「あなた」に対する語りかけ、「あなた」に対する忠告や慰めとして書かれた占い。一方、詩は、一般に「私」を主題にし、「私」の独白として、「私」のための慰めや気晴らしとして書かれている。一般的な詩と占いは、対極にあると言うべきだろう。
詩なんかどうでもいい気がする。
ま、占いだってどうでもいいんだけど。
私はなにをしたいんだろうなあ。最近わからん。