何十億年後の我々
komasen333

何十年後の・・・
いや、失礼
何十億年後の話ですからね
その頃まで地球があるのかというと・・・
人類はもういないかもしれないですしね
できればいてほしいですが・・・



脈絡のないやりとり
一見ないやりとり


何十億年後とキャスターに関係性はない
何十億年後と我々視聴者に関係性はない


何十億年後までキャスターが世代間責任を担う必然性はない
何十億年後まで我々視聴者が世代間責任を担う必然性はない


正確にいうならば
キャスターは、何十億年後まで世代間責任を担う必然性を見出せない
我々視聴者は、何十億年後まで世代間責任を担う必然性を見出せない


つけ加えるならば
そこまで考慮して発言したわけでもないキャスターを責め立てる風潮になることは考えにくい
そこまで考慮して日々を営む者自体が、
現代という現在においては絶対的に少数というか皆無に等しいと思われる


10年とか50年という中長期的な身近な話題ではない
何十億年後は、現実的な世代間責務が生じるような未来の話ではない


果てしない遥かな未来は、そもそも未来になり得ない  未来と捉えられないものである
ようは、知ったこっちゃない次元である


地球があろうがなかろうが
人類が生存していようがいまいが


ようは、どっちでもいい
ようは、どうでもいい


この感覚は気軽なようでなんとも含蓄を感じさせるものである
潔いのである


そりゃそうだ
自分の生にはまったく関係ない未来の話だからだ
自分をとりまくこの現代や世界にはまったく関係ない次元の話だからだ


10年とか50年という身近な未来ではこうはいかない
だが
そうであろうか?


10年とか50年という身近な未来に対しても、
これくらいのスタンスを軽く忍ばせておくというのは悪くないのではないか?


なにも
世代間責任を無下にしろとか、棄却しろというわけではない


一種のエッセンスとして、忍ばせておくのは何も悪くないのではないか?


いや、それくらいのスタンスがあることで
はじめて新たな柔軟性が生まれ
いい意味での妥協や可能性の拡散が漸進していくこともありうるであろう




本気で
地球を守っていかねば
人類を守っていかねば  と思うならば


本気で
地球があろうがなかろうが
人類が生存していようがいまいが  

腹を括る覚悟も忍ばせておくのが筋ではないであろうか


地球を守っていかねば
人類を守っていかねば  のみを押し通していくとすれば


やがて
地球をきっと守れる
人類をきっと守れる   という楽観に陥っていくばかりであろう



また
何が何でも地球を守るべきだ
何が何でも人類を守るべきだ    
という
ごり押しがごり押しとも思われぬまま、はためいていくことになるだろう


さすれば
地球は何よりも尊い
人類は何よりも尊い    
という
価値化が価値観念とすら認識されぬまま常識の一つとして染み込んでいくのだろう




その果ては
地球こそがすべての根源なのだから
人類こそがすべての根源なのだから    という無難の帰結にほかならない


自由詩 何十億年後の我々 Copyright komasen333 2012-01-30 12:38:24
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