インターネット
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小学校の授業にインターネットの使い方を教える時間がある。僕は教えないで欲しいと思う。インターネットには有害なものがいっぱい落ちている。卑劣な言葉、卑猥な言葉。後者は年の頃になれば、そのありあまるパワーで、どこぞから手に入れてくるけどね。って、まあ当たり前のように有害なものが落ちているというのでは芸が無い。そうじゃなくて、インターネットは個人が有害なものになりうるという危険をはらんでいる。
人間は受精をした瞬間から分化が始まる。自己内での生物的な分化。そして母親との特別な意味を込めた分化を果たす。赤ん坊は泣くし、怒るし、笑う。それぞれの行動に知的な意味は無い。それはまだ勉強中だから。これらの行動には知的な意味がある。Expression。表現。自己と他者とを結びつけるための手段。人間は生まれて成長する過程で、自己と他者との精神的な分化を果たし学び表現を得る。でもここで面倒なのが自己と他者との分化が犯罪者を生む。目の前にある空き缶は自己ではない。ぺったんこになろうが、リサイクルされようが知ったことではない。これが人に対して起こると犯罪になる。ややこしい。大事なのは自己と他者との分化のバランス、他人の感情を感じ取れ、理解してあげられるかという事。
僕が今の時代に思うのは、価値基準の無い時代。よく言えば、自由な個性を獲得できる時代。でもそこには、他者に対する許容とはいい難い無関心という風潮がにじみでている。様々な価値観がある時代に全ての価値感を許容しようなんて、おこがましいのかもしれない。そんな時代のインターネット内に自己と他者のバランスの取れた区別があるのか?はっきり言って無いと僕は思う。無関心という風潮が強い。全くという訳ではないけど。人の存在の証はあるけど、人はそこには存在しない。匿名性におされ自己と他者との区別のバランスが崩れる。たかがはずれれば、日常の建前の中から自己が大きく出てくるのが人間の常。日常でも経験する。愚痴、陰口、悪口。もちろん、大多数の人がインターネット内でも人間的に振舞っていると僕は信じている。そしてバランスの崩れてしまっている人の発言を、読み流すこともできていると思う。でも、小学生や小さな子供はどうだろう?以前漫画家のえ〜と おぼっちゃま君を書いてた人が言っていた。朝まで生テレビだったろうかな。 人間は放っておいても、善に向かうと盲目的に信じる輩がいる。って。
インターネットのやり方を覚えてしまったバランスの取れていない子供が、ネットから得た情報でどのように自己と他者を区別し大人になるのだろうかな。僕はインターネットの無い子供時代を過ごせて本当に良かったと思う。