43ページ、つまり44ページ目
はるな


ノルウェイの森を、久しぶりに読み返していて、七章に差し掛かったところで何かおかしいな、と思えば、43ページ目(つまり44ページ目も)がきれいに破りとられていたのだった。ワタナベと緑が昼間から酒を飲みにいく場面だ。なつかしい小説を読み返すと、そういったことがままある。きにいった場面を破りとって、手帳にはさんだりしていた。そういうことが心の支えみたいなものだった時期がある。
そこに何が書かれていたのだっけ?

ディティールが残っていくのだ、とは、たしか何かで宮崎駿が語っていたことだと思うのだけど、ふむたしかにそうかもしれないと思う。それは映画について述べていたことなのだけど、ストーリーではなくて、木漏れ日の光の具合とか、街の喧騒とか、そういうディティールが引っかかって残っていくのだと。
別れ話の内容よりも燃え尽きていく煙草のかたちとか、訪れた場所の数でなくそこでみた埃をかぶったへんな土産物とか、交わした口づけの長さでなく、耳たぶにあたる日差しとか。
失われていく温度がふとした瞬間に強く残ってイメージになる。それがわたしのある部分―すごく重要な部分―を形作っていて、そして、二度と触れることはできない。思い出すことはできても。

このノルウェイの森は、たぶん、わたしにとって生活みたいなものだ。破りとられたページの内容が気になるのなら、本屋に行けばいいのだし、それはかんたんなことだ。いつでもできる。そうやって幾度も新しいものを使ってきた。でもそうして、新しいものを用意しても、そのうちにまたどこかのページを破りとって手帳にはさんで過すだろう。そして、気に入ったその場面も日々にまぎれて、ページの足りない小説が手もとに残り、破りとったことも、そこに書いてあったことも忘れて。


朝だ。
夫は仕事へいってしまった。コーヒーを、いつも三分の一ほど飲み残したまま、出て行ってしまう。冷えてしまったそれに牛乳を足して飲んでいるわたしを夫はしらない。一日ずつ、わずかに変化する光のかたち。上から横から、窓を開ける音がする。たまに子どもの泣き声も聞こえる。開いてさかさに置かれた読みかけの小説。

いったい何が重要なんだろう。

ディティール。それは、じゃあこの生活のいったいどの部分なんだろう。かなしかったのは、納得できてしまったからだ。ストーリーよりも、ディティールが残っていく、と。生活においてさえ。
夫は、いまやわたしの生活のすべてになってしまった―すべて、にディティールなどない―。もともとわたしに生活などなかったのだし。はがれかけていたわたしの中身は、いまやすっかりべつべつのものになって、お互いに顔を見あわせている。それは、思っていたよりもずっと穏やかな心地だった。不安を生活に持ち込まなくてすむから。生活に、思い出は必要ないのかもしれない。夫といるときには、何の思い出も、思い出す必要をかんじない。でもあるいは―この生活がなにかの拍子に失われたら―とも思うのだけれど、それでもやっぱり生活と思い出はかけ離れたままだろう。破りとられた小説のページのように、そこに何が書かれていたか、思い出せないまま、破りとられたこともわからないまま、本棚に並べられるだろう。



散文(批評随筆小説等) 43ページ、つまり44ページ目 Copyright はるな 2011-12-21 09:04:51
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