八柱腰折れ屋敷十字舎房
一番絞り

この牢獄(パプノティコン)は、ひじょうにあたまの冴えたクールな狂人が設計したのだ。
天窓からふりそそぐ季節ごとの光の重量、色彩の変容までを数量化し、
そこから落ちてくる微細なホコリの乱反射までを
計算にいれていた...。

 余ハ在ル八角形ノ広堂ニ関スル八柱腰折れ屋敷ノ設計ニ当タリ、
 コレヲ立体架講(Spasetruss)ト考ヘテ一種ノ計算法ヲ試ミタリ

この一望監視施設は冬になると骨の髄まで冷えた。
レンガ色の空間に閉じこめられた異界の冷気は無慈悲に、容赦なく囚人服を突き抜けて生身に浸透し、Kの口からたえまなく靄のようなガスを吐き出させた。
Kは板の間の独房に一日中、正座させられながら、膝頭が凍えてきしむ音をじっと聞いていた。
外観の豊かさに比して内部はおどろくほど簡素だったのだ。
獄房回廊の機能一点張りの空洞を─それは大昔に絶滅した恐竜の胸骨のような剥き出しの骨組みと、分厚い鉄扉と、かつては白で塗られた壁でできていた─
まるで幽霊の咽喉だとKはおもった。
Gはこの八柱腰折れ屋敷十字舎房を〈お伽の国〉としてつくったのだ、と文献は記している。
いまでいうオタクだった。
この上なく冷徹な、機能一点張りの刑務所を夢のような童話のイメージで飾ろうとしたのだ。
小菅刑務所の囚人に製造させた色鮮やかな紅蓮のレンガひとつひとつにこの屋敷のイニシャルを
刻印させ
それをGは細くクサビ型に切らせてパッチワークのように積み上げさせた。
外からみるとそれは美しい壁画の光景であった。
そうして装飾された八柱腰折れ屋敷は、大正期には豊多摩監獄と呼ばれ、関東大震災を生き延び、大杉栄、林房雄、中野重治、三木清、埴谷雄高らを獄に繋いだ。

 俺の所から背伸びすると、ワットーの如き森、ルソーの如き火の見やぐら、
 またセザンヌばり(雨の日はブラマンク風)の風景が見える。
                「『中野重治書簡集』愛しきものへ」

そう、鉄格子の窓から遠望する光景はこの世のものと思えぬほど美しかった。
ポプラ並木と、決して手の届かぬ芝生がおおらかに広がり、そこは未来永劫、
囚人以外が立ち入ることは許されぬ異界であった。
平和と安息の風景がそこにはあった。
ときどき野ネズミが優美な野良猫に襲われる思いがけないドラマを除いては─。

ある日、Kの独房の重い扉が開かれ、入り口に拳銃を携帯した屈強な体躯の看守とカメラを抱えた灰色の背広姿の年老いた男が立っていた。
ここでは獄房を出る理由を聞くこともできないし、聞かされることもなかった。
天窓から娑婆の陽ざしがふりそそぐのを嬉しいような眩しいような思いで眺めながら、
Kは凍てついた廊下にふりそそぐ光の洪水のなかをこつこつ歩いて外に出た。
思いがけず頬がゆるんだ。もうすでにして発作の兆候はこのときあったのだ。
指示されるがままKは分房監裏の壁際に立った。
年老いた男がKの正面を向いて三脚のカメラを構えた。
Kは笑った。
男が不審な表情をした。
 記念撮影デワナイノニ、コイツハ、ドウシテ笑ウノダ?
無言でそういっているような怪訝な表情だった。
その生真面目で不審な顔つきを見て、Kはまた笑いがこみ上げてきた。
男は眉をしかめてKをじっと見た。
しかしもう止めようがなかった。
止めようがなかった。
たまらなくおかしくて、腹の底からこみ上げてくるものがあった。
看守が拳銃を抜いて近づいてきた。
それでもKは発作的な笑いを抑えることができなかった。
もはや意志の力ではどうにもならなかった。
Kは震えながら、哀願しながら、涙を流しながら、げらげら笑ってしまった。
無表情な看守は銃口をKの眉間に押し付けた。
Kは腰を抜かし、その場に崩れて小便を漏らした。それでも笑いの発作はとまらない。
庭に、かすかな白い蒸気と生臭い匂いが立ちのぼった。
看守が拳銃の撃鉄を引きあげる音がまるで爆弾のようにKの耳に響いた。

八柱腰折れ屋敷はその後、中野刑務所と名称を変え、昭和五十八年の秋、解体工事が始まった。
赤レンガの瓦礫の下からは山のように積み上げられた閂錠が現れた。
そして、たぶん、ひしゃげた一個の薬莢もいずれ見つかるだろう。
「屋敷」を設計したGは、竣工を終えてすぐに風邪をこじらせて寝込み、四年後、三十六歳の若さで夭折したといわれている。
ほんとうは「画家になりたかった」かれが生涯に一度、初めてつくった「お伽の園」だった。





未詩・独白 八柱腰折れ屋敷十字舎房 Copyright 一番絞り 2004-11-23 09:15:16
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