密約
済谷川蛍
舞台にたった一人だけ。幕は無常にも降りてくる。堪らなく不安になり、足が震えてしまう。その幕が二度と上がらないことを知っているから……。
幕が閉じてしまう前に問いたい。
果たして、この世に純粋なる幸福というものはあったのだろうか?
生身の人間の構造や機能、人間社会の機構や軋轢、或いは世界に有り得ない物事が多すぎて、純粋なる幸福というものは実現不可能だ。
ひとつ、答えが見つかった。
この世に純粋なる幸福というものは存在しない。
幸せのカラー、幸せのアロマ、幸せのステージ、幸せのインカーネーション……。
ミルクのように白く曖昧な世界。ここはどこだろう? 雲海まで伸びた塔の最上階。高台に建つ神殿。物思いに耽る者たちの共通の故郷。場所は定かではない。白いベッド、大きく窓が開かれた石壁、そして床、世界を創造するものはそれだけのように思える。私は私の姿を確認出来なかった。けれども、ずいぶん幼い身体であるように感じた。時間というものは無かった。なぜなら、この世界には過去も未来も無いからだ。自分だけの唯一の世界であることが何となくわかった。当たり前のように安らかな世界。間もなく、この世界に天使の存在を認めることになる。
これほどまでに安らかで、無垢であるというのに、まだそれ以前の記憶が残されている。何のためであるかは、すぐにわかる。会話をするためだ。
余分な観念が存在しない世界の会話は、実に淡々とした調子で行われた。
「ひどい、世界だった。全ては争いと欲望の中にあった」
私の嘆きに、彼は静かな眼差しで、こう答えた。
「今、ある世界。それが実在する唯一の世界」
「だが、誰もがここに至らなければ、それは真の幸福とはいえない」
「誰もが至れる、それがこの幸福の世界」
「しかし、私は見たのだ。あまりに惨い死体の数々を。人間たちの、どうしようもない醜悪を。彼らもここに至れるというのか?」
彼は静かに頷いた。
私は手を握られた。ごく自然に、今まで孤独を握り締めていた私の拳が、温かい幸福感で満たされる。何もかも無に帰して行くというのに、最後の最後まで残ったのは、純粋なる幸福であった。