【批評祭参加作品】批評祭をやろうぜ
KETIPA

(おれは関西人なので関西弁でやらせていただきます)。遅れてきて「やろうぜ」もねーよなー。もうやっとるっちゅうの。

相田九龍さんの秋波が押し寄せてきたのでちょっと覗いてみました。早速【批評祭参加作品】っていうタイトルがもりもり並んでてよさげな感じですね(【批評祭参加しない作品】にも注意)。作品に対するレスポンスのような作品もあったりして、うんうん、順調にやっとるなーという感じですね(誰やねん)。コメント合戦とか場外でも盛り上がったりするんでしょうかね。

場外といえば、一言ダイアリーで石川敬大さんが「もっと真剣にやろうや!」といっているのは(恐らく)批評祭についてなんじゃないかと思ってるんですけど、表層をなぞってイメージで語ることだってひとつの真剣な試みであるべきやし、そういう姿勢で批評に臨む人がいるからこそ、現代詩フォーラムで批評祭をやる意味があるんやと思ってる(だから石川さんのひとことについては、おれの勘違いやと思いたい)。

一編の詩に対して、あるいは現代詩全体に対しての捉え方考え方接し方がばらばらな人によるもろもろの文章が集まって、共感しあったり場外乱闘を繰り広げたり、次の作品で応答したり、そんなもみくちゃのなかで、おれが持ってる考え方と相手が持ってる考え方を交換して視線を広げれるのが、批評祭の面白いところやと思ってるんやけどねえ。一つの詩をもってきて、それに対する解釈を披露し合う場に過ぎないんやったら、おれはそんな批評祭にはハナから参加してないです(そんなん文極でやれよ)。あ、別にそういうスタンスがダメっつってるんじゃないですよもちろん。それ以外のがおってもええやんかと。おれみたいな、ぼんやりしたものを、個々の作品じゃなくて全体の感じからまるっと掴もうとするアプローチの人間もおらせてくださいよと。石川さんみたいなスタンスだけじゃなくて、仲さんや虹村さんみたいなスタンスの作品があるから面白いんですよ。ねえ、ちゃけてるかもしれんけど真剣ですよおれは。


ええと前置きが長なりましたね。おれも詩についてとかなにか書こうかなーと。

というかね、もう結構おれ現代詩読んでないんですよ。単純に個人的に忙しくなって、読む余裕がなくなってきたってのもあるけど、なんかこうそこまで魅力を感じなくなってきたんかもしれんねーと思ってる。個々の作品に対しての魅力。現代詩に対してはまだそうでもないと思ってるけどね。最近読んだといえば、カミングス詩集をちらちらと、くらいか。カミングズか。今開いたら「もちろん 神様の次はアメリカ」ってフレーズがあって笑った(なお、今回の文章にカミングズの話はもう出ません)。

現フォはまあ、かなりご無沙汰やねー。まあ前からそうやったけど、おれの求めるような詩はあまり集まってこないんちゃうんかなーここに。ちゃんと見れてないから断言はできんけど、なにかこう食指が動かない。まあ、現代詩のレベルやら動向やら以前に、おれの感性が解放されるだけの余裕が無いだけかもしれんけどね。音楽でも新しいものを積極的に求めなくなってきたりしてるし、他に考えることが減ってきたらまた興味を持ち出すかもしれん。

それはそうと、どうにも作品を読む気が起きないのは、一つには、パターンの少なさがあるんちゃうかな、と思ってます(今考えたのは内緒)。即物的な単語の羅列、どこか遠い記憶を引き出すかの如き物語、日常のそれ、もののみかた披露、チャケてまっせみたいなの(関係ないけど、くれいじー・こすぎさんの「ご飯がご飯が二人前!」っていうフレーズとリズム感が今でも忘れられない)、などなど。
ジャンルというか作風はまあいろいろあるんやけど、そこから引き起こされる感覚がだいたい一緒になってきている。「説明できないんやけどなんか惹かれる」という感覚にも慣れてしまって、わざわざ新しい作品に触れようとする気概がわかない。きっとおれの読み方が、一文字一文字噛み砕くような読み方じゃなくて、全体をざらっと眺める読み方やということが大きく影響してると思うけど、つまり遠目で見ればどの詩も似たように見えてくると。ある意味当たり前なんやけど、それでもまだ違った感覚を求めているわけですね。ある意味邪道であり異端かもしれないけども、新鮮さを無くした現代詩などおれは興味ないです。

で、新鮮さがなくなる原因のひとつは、現フォがベタ打ちの文(と画像か)しか表示できないから、ってのがあるんちゃうかなーと思ってます。これは以前から思ってたことで、前にも書いたのでまあ繰り返して書くことはしません(「パソコンは21世紀の恭次郎を堕胎させるか」)。早い話、現フォは今流行りの3D化にも対応してないし、文字列からはみ出した文字すら表現できんと。だから言葉の意味勝負にしかならん。これではもったいないと言ってるわけです。

そうそう、八柳李花さんの批評祭作品にあった「骨おりダンスっ」Vol.1も読んでみて、全体的にはさらさら流れていってしまったけど、生熊源一さんの「ころしへん」はぴくっときましたね。まさにああいう形のがもっと増えて欲しいんです。PDFの勝利ですね。他にAR詩(セカイカメラによって現実空間上に仮想の詩を貼りつけ、iPhoneで見る詩)っていう試みも始まってるようですが、あれなんかもいい感じです。

ただ、もうそれは現代詩なのか? と言われると正直どうよ。いや別にええねんけど、個人的には全くもってええんやけど、コンクリート・ポエトリーとか別の名前もある以上、それは現代詩と一緒にくくって考えたらアカンのかなーとも思いますね。「現代」詩っていう懐の広さに、無遠慮に乗っかかってる感じはするかな。そういう変形的なのを、紙媒体的な現代詩と一緒くたにして論じようとするから、わけわかんなくなるんですよね。まあ、それはそれで批評祭がもたらす作用ということにしときます。

そういえば、これを書いてる時に、空丸ゆらぎさんの「詩とは「詩的なもの」を書いた文章です。」って一文が目に入ったんやけど、おれは正直この一文の意味がよくわかりませんでした。「詩的なもの」が先にあるんでしょうか? おれはそういうステレオタイプな「詩的なもの」に抗うために詩を書いたり読んだりしていますが、そうして生まれた詩は詩ではないと。まあおそらく、前提がまるで違うんでしょう。こういう、おれにまるでなかった考え方に触れられることが、やはり批評祭の大きな収穫ですね。


【追記】

ここまで読んで「おれ何一つ新しいこと書いてねーな」と思ったので、書こうと思ってたことをもう一つ。

おれは結構意図的に自分の情報を伏せて作品を提示するという姿勢をとってます。書く機会がなかったんじゃなくて、あえて書いてなかったと。それによって、友だちや知り合いがなかなかできないなどデメリットもまあいろいろありますが、それ以上に、作者情報が加わることで作品の読まれ方がある程度固定化されてしまうんじゃないかということを恐れてるわけですね。

これを書いたのが学生なのか社会人なのか、若者なのか年寄りなのか、学生なら受験を控えた高校生、あるいは就活中の大学生、社会人ならノルマに追われた営業マン、それとも納期に追われたプログラマー、いやいや、ひきこもりのガチニートという可能性だってある。どれがおれの姿なのかは、広くは知らせないようなスタンスでやってます(聞かれりゃ応えるかもしれないけど、別に興味ないんちゃうかな)。おれっつってるけど女の子かもしれないわけで。

いらないんですよ、素性とか、詩を読むときには。ネットだから身分を伏せやすいという利点を活かして、あえて匿名性の高い作品をぶちこんでるわけです。文体から作者の姿が予想できたとしても、詩を読むときにそのへんをあまり意識してほしくない。だから一種のユーレイですよ、ネットゴースト。まあそもそも大して作品を発表してない奴の言うことでもないですけどね。


まだ書けたらまだ書きます。批評祭楽しませてもらいますよ。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】批評祭をやろうぜ Copyright KETIPA 2011-03-06 00:06:48
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第5回批評祭参加作品