「反逆する読者」宣言
KETIPA

 何度か言っているが、以前からストーリーや、作者が意識した情景、心象を伝えようとする詩に魅力を一切感じなかった。もちろんそういう詩が全て嫌いだというわけではない。題材として用いられている分には全く気にならない。しかし、それ以外に読むところのない詩が好きじゃない。詩的な表現で、情景や心象を、作者が意図したそれらを感じさせようとするだけの詩は、どうやっても流して読んでしまう。そしてもう恐ろしく何度もいわれていると思うが、そういう詩こそここ現代詩フォーラムでは評価されている。あくまでポイントという尺度で見れば。大体なんでログインしてない人はコメントすら残せないのか。そこはシステムとして見直すべき点の一つと感じる。

 話がそれた。なんというか、本当に詩というフォーマットを借りた日記か小説、あるいは随筆みたいなのが多くて、なんというか、これ現代詩でやる必要あるんかなと思えるのがやっぱり目立つ。現代詩フォーラムでちまちま詩論めいたものを書いて、その反応とか別の方の文章とかを読むにつれ、やっぱり詩には読み方が存在するという考え方が、作者の意図をなるべく汲んで評価すべきという考え方が幅を利かせているらしい、と感じざるをえなかった。これには非常にがっかりした。

 以前も書いたので細かいことは省略するが、現代詩を読むに当たっておれが魅力を感じたのは、言葉の組み替え、混合による不協和音、相互作用、そこから得られる非言語的な感動に対してであって、それ以外ではない。当然そういう読みかた以外の詩の楽しみ方を否定するものではない。ただおれは、既存の詩やこれから生まれてくる詩についても、おれの読み方で読ませてもらい、こっちの基準で判断させていただく。むしろそれが当たり前のはずであって、いちいち宣言しなきゃならないようなことでもないはずだが、あまりにも均質化されつつある現代詩について、何か言わなければならないような気になってしまった。このままではおれの読みたい現代詩が現れてこないのではないか、という気になったので、微々たるアクションを起こすことにした。


以下が宣言文。


おれは一人の読み手として、読者として、忠実に詩を読むことに反抗することをここで宣言します。

公園が描かれたら公園を想起すべき、といった、言葉を特定の物象とつなげるべきという読み方を拒否します。
この詩で作者が伝えたいことは何か、を考えることを拒否します。
文脈どおりに詩から物語を読み取ることを拒否します。
上から順序良く言葉を読むことを拒否します。
この詩はこう読むべきという評論、指摘を受け入れることを拒否します。



これを言い換えると、次のようになる。


おれは一人の読み手として、読者として、おれの読み方で詩を読み、よしあしを判断することをここで宣言します。

公園が描かれた時に洗面器を想起してもいい、といった、言葉の意味にとらわれない詩の読み方を厭いません。
作者の意図にかかわらず、自分が作品そのものから感じた印象を重視することを厭いません。
詩にこめられた物語性を一々意識せず、勝手に解釈することを厭いません。
詩の中間から最後に飛び、また中間部を読むなど、好きな部分を好きなだけ読むような読み方を厭いません。
詩にはある程度の決まった読み方がある、という考え方を無視することを厭いません。



 読者は読み手である一方、作り手であっても構わないと思う。それはなにも、読んでいるだけではなく詩を書け、という意味ではない。詩から独自のイメージを、作者ですら予想できなかったイメージを想起することこそ、詩の読み手に与えられた自由であるべきだと思う。ある程度筋書きのある小説などでは、読み手によって作品を変質させるということは困難だ。まして映画(前衛のぞく)などでは、読み手の生み出すイメージが介入する暇などほとんどない。別にそれが悪いわけではなく、そういうジャンル、そういう形式の作品については、詩とは違った楽しみ方がある。しかし現代詩は、読み手のイメージを作品に反映して、そこから一人ひとり全く違ったイメージを形成できる、数少ないジャンルだと思いたい。そうあってほしい。その現代詩までもが、小説や映画の延長線上のような作り方、読み方をされることに、おれは納得がいかない。現代詩でしか味わえない感動体系がないのであれば、現代詩などに未来はない。小説や散文、随筆、映画に吸収されて、立場なく縮んでしまうだろう。同じ土俵で戦えば現代詩などに勝ち目はない。現代詩というフォーマットでなければいけない理由が確固としてなければ、現代詩みたいな表現方法はさっさと廃れてくれていい。

 最後に一つ。おれのように感じている人がもしいれば、もっと声をあげてほしい。寡作のおれがこんなことを言うのもおこがましいけど、いや私の読み方はどっちみち少数派ですから……なんて言ってたら、本当に少数派になってしまい、余計に肩身の狭い思いをするだけになる。そして現代詩自体も過去の表現技法に堕するだろう。どれくらいいるのか知りたい。現代詩自体には独特の魅力を感じるけど、現代詩フォーラムで評価の高い詩にはあまり好きなものがないという方、そこのあなたは違いますか。アクションをお願いします。


散文(批評随筆小説等) 「反逆する読者」宣言 Copyright KETIPA 2010-06-13 13:58:13
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