【批評祭参加作品】死蔵作品を救うのは批評じゃない
KETIPA

 端的に言って量が多い、ネットにある現代詩てのは。現代詩フォーラムだけでも、数えたことないけど何作あることか。で今の現代詩フォーラムでは、その中から作品をより分けるシステムがろくに整っていない。書いたら書きっぱ。ポイント数やら個人のオススメからより分けていきゃいいんだろうけど、右も左もわからない現代詩初心者、しかもつまんなければパッパとページを変えていくネットサーファー達が、あるかもしれないお気に入り作品を根気よく探すわけがない。

 だから現状では、現代詩フォーラムは単なるデータベースに近い。積極的にそのデータベースから良質と思われる作品を引き出すシステムがないから、99.9%の作品は死蔵状態のようだ(しかもそのうちのほとんどは駄作かもしれない)。ある意味ここは、ネット詩の墓場だといってもいい。アーカイブは閲覧されなければ価値がない。

 例えば現代詩フォーラムの詩から、テーマや作風ごとにアンソロジーを組んだり(なにも紙媒体にする必要は無い)、pixivのようにユーザータグ設定をするだけでも格段に視認性が上がるだろう。

 そもそも詩を知りたいと思う人が、必ずしもその詩の解釈や批評を必要とするかは疑問だ。おれのように、たまたま現代詩に触れて「なんだこれは」という経験をすれば、そこから探しにかかってくれるかもしれない。詩の批評に触れて詩に誘いこむより、詩を提示したほうが手っ取り早い。音楽でも視聴は大きな誘引効果を持つはずだ。それなのに現状では、去年(2009年やぞ)30ポイントを獲得した作品の検索すらままならない。当然ポイントの多い少ないは、個人的感動に比例するわけでもないから、ポイントはあまり入ってないけど個人的にはこういうの好き、という作品との出会いは相当難しい。
 カテゴリーにしても大雑把過ぎる。せめてインディーズ音楽投稿サイトのmuzieくらいに細分化してくれないとダメだ。なんでもいいから音楽を知りたい、というのでなしに、ロック調の音楽が聞きたいとか、そういう具体的なニーズを満たしてくれる環境が、ここは整っていない。その分思いがけない作品に出会えるというメリットはあろうが、視認性の悪さはそれを上回るデメリットだと思う。

 断言してもいいが、批評だけでは新たな読み手、書き手を誘引できる効果は少ない。恐らく何度も言われていると思うが、システムの見直しか、新たなポータルサイトでも設立して、さまざまなタイプの詩に触れられる場を設けるべきだ。そこに必ずしも批評は必要ない。例えば近現代詩まとめ(http://uraaozora.jpn.org/index4.html)や、ネット詩:選出作品リンク(〜2008.12)【完成版】 (http://caseko.blog90.fc2.com/blog-entry-307.html)のほうが、現代詩フォーラムの新着や、ぽっと出の詩批評より遙かに有用だ。そこのところの、データベース運用のセンスを持った人間が、現代詩フォーラムにはいい加減必要だ。何回言ってんだ過去の人(あまり知らないけど、言ってんですよね?)。

 あと現代詩フォーラムというか、現代詩の書き手達は、読み手として想定される人間を限定しすぎてはいないか。自分がそうだからと言って、人が同じ読み方をしてくれるとは限らない。むしろ解釈は邪魔だという人だっているだろうし、そんなとこに面白みを見出されるとは、と作者の想像を超えた感動を勝手に受けてくれるかもしれない。そしてそれは邪道な読み方だなんていってるうちは、客はどんどん店にこなくなる。言葉遊びでいいじゃないか、ノリだけで感じたっていいじゃないか。意味がどうした、解釈がどうした、そんなんより先に、現代詩を、それなりに読めたレベルの現代詩を黙って提示する。それだけのことが未だに出来てないんじゃないか。

 まだまだ現代詩の認知度なんて話にならないくらい低いんだから(Wikipediaの現代詩の項目とかがっかりするよね)、もっと門戸を広げましょうよ。潜在的読者はいるはず。どう理解してもらうかとかじゃなくて、もう理解できる素地をもっている人間は絶対いるはず。そこの結びつけをすることが、現代詩を広めるための第一歩なんじゃないかと思う。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】死蔵作品を救うのは批評じゃない Copyright KETIPA 2010-01-13 23:51:50
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第4回批評祭参加作品