【批評祭参加作品】つめたくひかる、3—江國香織の表記
ことこ

 前回、前々回の「つめたくひかる、1―江國香織『すみれの花の砂糖づけ』」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201263)「つめたくひかる、2―江國香織『すいかの匂い』」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201312)では、それぞれ詩集『すみれの花の砂糖づけ』と短編集『すいかの匂い』を「つめたい」という言葉に着目しながら読んできた。これらを読んだ方は薄々感づいていることと思うが、江國香織の「つめたい」は、「冷たい」ではなく、「つめたい」であり、すべてひらがな表記である。今回は、この表記について考えていきたい。

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 江國さんは、漢字とひらがなにも独特の選択眼を持っている。
 何を漢字にするか。どの部分をひらがなにするか。同じ言葉でも、あるときは漢字になっている。あるときはひらがなになっている。
 文章の中での、言葉の力の入れ方を決めるために、江國さんは漢字とひらがなを選ぶにちがいない。
 この言葉ならば、必ず漢字。この言葉ならば、いつもひらがな。そういうふうに、自動的に書くのではなく、言葉ごとに立ち止まって、文章ごとにためつすがめつして、そして決めるにちがいない。
(『すいかの匂い』(新潮文庫)解説 川上弘美)


 例えば、短編集『すいかの匂い』の中では、「すいかの匂い」という話では「扇風機」をすべて「せんぷう機」と表記しているが、「ジャミパン」などの話では普通に「扇風機」と表記している。ここから見ると、なるほど、川上氏の指摘も頷ける。しかし、「つめたい」は『すいかの匂い』に限らず、私が探した限りではすべてひらがな表記であった。これは、何故だろうか。
 まず初めに考えたのは、もしかしたら形容詞はひらがなである、という傾向があるのかもしれない、ということだった。しかしその可能性はすぐに否定されてしまった。

○蕗子さんからきいた話のなかで、いちばん印象に残っているのはカメの話だ。かなしい話だったが子供心を揺さぶるものがあり、くり返しせがんできかせてもらった。(「蕗子さん」)

○(とられた体操着袋を水たまりの泥の中にみつけたときの哀(かな)しさと屈辱感、そして、一人だけ汚れた体操着をきて受ける体育の授業のいたたまれなさといったらない。)(「蕗子さん」)

 同じ話の中で「かなしい」は「かなしい」と「哀(かな)しい」(本文にもルビがふられている)の二通りの表記がある。他の場所でも、「かなしい」はこの二通りの表記が見られた。
 他にも、

○元来羊羹は苦手なので、買っても一口食べれば満足してしまうお菓子だったが、名前の美しさと姿の涼しさにつられ、毎年どうしても欲しくなった。(「水の輪」)

○私には父親がいない。死んだり別れたりしたのでなく、はじめからいないのだ。それでもとくべつ淋しいと思ったことはない。(「ジャミパン」)

と、「涼しい」や「淋しい」は漢字表記の傾向があるようだった。こうなるとやはり形容詞だから、という理由は無理だ。しかも、一般的にいっても、小学4年生で習う「冷たい」より「涼しい」や「淋しい」の方が難しい漢字である。恐らく、文章を書くときに、特にこだわりがなければ、普通は「つめたい」は「冷たい」と漢字表記にするのではないだろうか。ここで「つめたい」を「つめたい」と表記することには、意図的なものがあると考えられる。
 では、「つめたい」というひらがな表記には、どのような効果があるだろう。Yahoo!で「つめたい」を検索してみたところ、一番上に出てきたのは「きゅんとつめたい。「カルピスウォーター」|カルピス」というキャッチコピーだった。他にも、Yahoo!キッズのページを除けば、上位に出てくるのは歌詞や本のタイトル等が中心である。カルピスのキャッチコピーの場合、「つめたい」にはやわらかさ、老若男女を含めたしたしみやすさ、などの意識が込められているのではないかと思う。しかし、それ以上に、通常ならば漢字表記にするだろう字をあえてひらがな表記にすることで、読み手の意識をはっとひきつける効果というものが生まれるのではないだろうか。
 ここで、詩作品を見てみよう。

古月「初秋」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=195935

 この詩の場合、かなり漢字が多用されている。その中で、「つめたい」は「つめたい死体」「つめたい井戸」「つめたい井戸」と3回出てきており、いずれもひらがな表記である。ともすると漢字の勢いに乗ってすべり読みしてしまいそうなところを、ふいにひらがなで抜けることによって、読者の目を引きつけ、「つめたい」の次の「死体」「井戸」をも強調する効果を生み出しているのではないだろうか。
もう一篇みてみよう。

小川 葉「つめたいビールが飲みたくて」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=172645

 こちらは、「つめたいビール」「つめたい女」「つめたいビール」とやはり3回(タイトルを含めると4回)、「つめたい」が出てくるが、いずれもひらがな表記である。この詩では「つめたいビール」が重要なモチーフとなっており、特に、中盤の「ぬるいビール」と「つめたい女」の対比が印象に残る。
 以上で見てきた通り、「つめたい」をひらがな表記にすることには、その言葉を読者に読み流して欲しくない、丁寧に扱いたい、といった気持ちが反映されており、ひらがな表記にすることで、読者の目を引きつける効果があると考えられる。

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 さて、私は、「つめたくひかる、1―江國香織『すみれの花の砂糖づけ』」の冒頭で、何故今回「つめたい」という言葉を扱うのかということに対して、「なんとなく印象に残ったから、としか答えられない」と書いた。
 この、「なんとなく印象に残った」というのが、実はすごいことなのではないかと、先ほど引用した解説の続きを読むとそう思う。


 工芸品をつくる職人さんのような技だと思う。完成した作品はとてもなめらかなので、どんな技を使ったか、すぐにはわからない。わからないけれど、確かに技は使われている。わからないということが、何より、技を使ったしるしなのだ。
(『すいかの匂い』解説)


 これまで、江國香織の「つめたい」という言葉を巡って、詩においては精神的な隔たりのある場面で、『すいかの匂い』においては精神的に不安定な場面で用いられていることを述べてきた。この、ここぞ、という場面で用いられる「つめたい」という言葉は、やはり江國香織にとって大切にしたい言葉であり、だからこそ私にも、つめたくひかる、言葉として、心に留まったのだと思う。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】つめたくひかる、3—江國香織の表記 Copyright ことこ 2010-01-13 19:15:50
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