【批評祭参加作品】批評もそこそこに現代詩の先行きが不安だ
KETIPA

おそばを食べていたのね、ギターの音がしたの、夜になって、電気を消した、私は眠る時間で、猫は目を覚ました。
「空が光っていればよかったんじゃないの。」
夜は出歩かない住宅街の人たち、仲良く同じころあいに眠り短い人生を消費していく、「かみなり、走った跡、」みどりいろの今朝はみずいろの上層部から、落ちてきた透明の何かをありがたがっていた。
「死んだのは蝶だけです、人じゃなくてよかったですね」
電話 の 宛先がない

(後略)

最果タヒ「あの海は、破損した恋について」(現代詩手帖2009年9月号)


 はいこの冒頭を読んで「そば」「ギター」「夜」を結びつけて情景を浮かべた人挙手。あと「電気」「私」と「猫」も情景に組み入れたよと言う人はもう起立で。じゃあそのまま聞いてくださいね。

 人によってはかなり細かく頭の中に再現されましたでしょうか。例えばそばを食べてる「私」は自宅で、隣のミュージシャンかぶれが鳴らすギターを聞いたと、で窓枠に猫でも乗っけましたでしょうか。何かその後でいろいろ組み合わせにくいモチーフが出てきて、もう混乱してしまったでしょうか。それともそれらのモチーフの組み合わせから、何かしら作者の意図なり表現している世界を考察できるとおっしゃるでしょうか。そしてそれが現代詩の批評であるというのでしょうか。

 だとしたらおれに現代詩の批評は無理です。違う世界です。だってこれを読んだとき、「おそばを食べていたのね、ギターの音がしたの、」でもう半笑いなんだもんおれ。そのモチーフの接続そのものに面白みを感じてしまう。内容とか展開とかはその次。別個のものとして、別次元のものとして「そば」「ギター」がぽこんと出てくる。文脈から離れた言葉そのものがもつ固有の周波数同士が組み合わさって、「そんな音出せるのか」と驚くような音色で、コード進行とか完璧に無視したようなメロディを打ち鳴らしていく。

 人によっては雑音と捕らえるかもしれないような、でも文脈もコード進行も気にしなければ最高に心を捉える音楽、それが最果さんの詩だと思っている(あれ、なんかこれ、そこそこまともな批評になっちゃってんじゃないの。おいやべー、言ってること矛盾してるな)。もちろんそれとは違う視点で、違う世界を見出して最果さんの詩に惹かれる人もいると思うし、そういう人はこの詩にしてもまた違う切り口で批評が出来るんだと思う。

 ちなみに、音楽の世界でも電子音をメチャメチャにつないだような作品ってのは、おうおうにして発行枚数が少ないようです。現代詩の詩集と音響系アルバムの発売部数は、ひょっとするとトントンくらいかも。音楽好きな人は山のようにいるけど、特定ジャンルだけ見るとそんなもんだったりするわけです。

 ていうかあの、作家とか、文字を書いたり読んだり解釈したりすることに慣れてる人ばかりが、現代詩を読んだり語ったりしてる間はダメなんですよ、きっと。音楽好きは別に演奏家ばかりじゃないでしょ。それじゃいつまでたっても、現代詩が堅苦しいっていうイメージすらなかなら取り払われない。しかも、そもそも持っている性質として、大衆の好みに迎合するってのは現代詩として面白いことじゃない(と思う)。それは別にいいんだけど、現代詩を書く人間はコマーシャル能力がないんじゃないかとすら思ってしまいますよ。なんかこう「売れないなら別にいーじゃん」みたいな、もっと言えば「売れてはないけどおれは好きだ」的な、(無意識的に)通としての地位を保ちたいし、どっちみち多くの人は興味持たないだろう、といった姿勢があるんじゃないかとすら疑ってしまいます。

 100人に見せて3人が興味持つなら、100万人に見せれば3万人が興味を持つわけです。とはいっても、現代詩で採算が取れる見込みが低いから、宣伝にお金かけても回収できないかな。というかね、100万人に当たらずとも、現代詩って面白いかもと思う人だけを狙い撃ちして引き込めばいいわけですよ。せっかくネットがあるんだから。足りないのは、露出の足りなさと見える選択肢の狭さ。

 現代詩とひとことにくくっても、いろんなタイプの作品があるんだから、それをもうちょい選びやすい状況を作らないと、さらに事態は悪くなると懸念しています。クラシック音楽もおれから見ると似たような状況で、一部の有名曲ばかり何度も取上げられて、その一方20世紀の作曲家なんぞ滅多に省みられない。詩をプッシュするにしたって、中原中也とか萩原朔太郎とか、いつまでたっても近代詩どまり。別に中也がダメというわけじゃいけども、中也よりタヒさんのほうが性に合うという人をたくさん取りこぼしてしまう。で「詩ってつまんねー」というネガティブイメージを受け取ってはいさようなら。不幸なことこの上ない。

 正直、現代詩フォーラムのカテゴリ別新着見てても、自分に合った作品なんていきなり見つけられませんよね。玉石混交過ぎて。適切な音楽レビューがマイナーなアーティストに光を当てる如く、適切な現代詩レビューによって新規読者を獲得して行かないと、現代詩は今同様細々とやっていくほかないでしょう。たまたま新着作品を見た時に、性に合う作品が見つからなければ、「なんだ大したことねーな」といってリピーターにはなってくれないでしょう。

 今マイナーなインディーズバンドとか海外のマイナーアーティストとかに興味を持つ人が増えつつあると感じてるわけですが、それを知るきっかけは、統括的なレビューサイトなり専門誌なりに多数の選択肢が提示されてて、これちょっと聴いてみようかな、と、そんなもんでしょう。現代詩のさまざまなタイプの作品をレビューっぽく網羅的に紹介してて、そこから自分が好きになれる詩を見つけられるサイトってありますか? ないでしょう。専門的、文学的な批評はあっても、ビギナーのための批評がない、これが現代詩が細々としてる理由の一つでしょう(あるわボケという方がいらっしゃれば教えてください、土下座くらいはさせていただきますんで)。

 ということで読み始めと最後でえらく内容が変わってしまいましたが、まとめなどは特になくこの文章はもうすぐ終了です。あ、この文章をお読みの現代詩ビギナーの方、もしいらっしゃれば、現代詩は感じたままに読めばいいので、よくわかんねー解釈はとりあえず気にしないで下さいね(あと現代詩は音読をおすすめします)。というわけでこの文章は終了です。お帰りの際は下部のニコちゃんアイコンをクリックしてってください(任意)。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】批評もそこそこに現代詩の先行きが不安だ Copyright KETIPA 2010-01-11 23:27:26
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