【批評祭参加作品】逆KETIPA——極私的な詩のつくりかたとよみかた
KETIPA

 しばらく詩作から離れていて、一ヶ月ちょっと前に自分で書いた詩(「ぐっすり消化する」)を読み返してみた。まず、あれこんな詩書いたっけ、と首をひねってしまった。それから単語の切れ切れを見て、ああそういえば、こんなこと考えて書いたんだっけとぼんやり思い出し始めた。やはり個人的には、一度書き終わった詩はもうすっかり作者から離脱してしまうらしい。そういえば以前書いた詩の事も、ほとんど思い出せない。これは何かに似ている、と思い当たったのが夢だった。

 ちょっと前から、起き抜けにノートをひろげ、夢を出来るだけ忠実に書きとめようとしている。安部公房もやっていたというし、結構ポピュラーな習慣なのかもしれない。そこで書き残された夢は、しばらく覚えていることもあるが、大抵は印象を含め全て忘れてしまう。それでもそのノート(字が荒れていて古文書のようになっている)を紐解いて解読すると、ああそういえばそんな夢みたな、と思い出せる。ということは、自分にとって夢も詩と同じ創作物なのかもしれない。いや逆に、詩の作り方が夢に似ているのかもしれない。白昼夢ってことか。

 そう考えると思い当たる節も多い。詩を作るときに何を考えるかというと、光景、言語または物質の断片、それらの接続と組み替え、全体のバランス、そんなところだ。恐らく多くの詩人さんたちが創作時に考える(はずの)、感情とか根底にあるストーリー性とか、そういうものは考慮されないことが多い。だから共感できる感情や、まして解釈というものは、おれの詩にはそぐわない気がしている。一部を除き。

 他の人の文を見ていると、詩の批評にしても、その評価の中心的な部分は感情か解釈に依拠していることが多い(ように感じる。偉そうにいえるほど読んではいないが)。というかそれが批評なんだろうから、別に変だとは思わない。しかし自分の詩の作り方が前述のようなありさまだから、解釈中心に展開するような詩の批評はできないか、できても極めて浅いものとなってしまうだろう(それを承知でこんな文章を書いている)。

 そんな調子だから、おそらく人と詩の読み方が違うのではないかと思っている(このことについては一つ前の散文「現代詩をそんな読み方してないゆえに」に書いた)。例えばここで、最果タヒさんの詩の一部を引用してみる。


      (前略)

(    き
       こえる

怒声
  ひとがですね
  ひとをおこる
  ときはですね         + +
  、土星のわっ *
  かがですね、     ++
  あたまにでき
  るんですよね
  。わたし、そ  +   +
  れを目で追っ)
  ていて、何度も殴られるんですけれど、
わたし、そうすると、わたしにも、わっかが
出来てですね、++* 両腕両足縛られるん
ですね。++* するとかれらはわたしに飽
きてしまうので、土星だけのこして、
  土星土星土星
  、いっぱいの
        土星だけを残して、去って
いくのです。いい、迷惑です。…


 ……       …
 ……
       …


 *


  処女

   細目




  わたしの、素肌 を舐めるより 確実
なわたしの
    味
       です。ですますます。べつに
    詩人 *
ですからうまれたときから表現者ですからべ
つにべーつーにー
いいです
    愛さないでも


最果タヒ「苦行」
初出 現代詩手帖二月号(2005) 投稿欄
Copyright 最果タヒ 2007-04-26 20:04:56縦


 この詩からどんな感想を抱くのか。たぶんいろいろ解釈は可能であるだろうし(言葉の配置についてとか、少女性についてとか)、悲しげであるとか具体的な感情を持つこともあると思う。でもそれらは、おれの感じたふるえのような抽象的な感覚を裏付ける説明にはならない。複雑に音が絡み合う電子音楽を聴いたときのような、このはっとする感覚は、具体的な感情や何かしらの解釈から起因するものではない気がしている。それを説明するには、それこそ違った方法論が必要なのかもしれない。

 純粋な(生楽器をまじえない)電子音楽は、0と1からなる波形の組合せで構築されている。もしくはその組み合わせに使う要素は、16進数であったり、32進数であったりするかもしれない。今パソコンで書いているこの文章だって、機械語を人間語に翻訳しているから、意味を他人に伝えることが出来る。だけどその根底には、機械語による処理がある。

 詩にしても、現代詩にしても、批評にしても、言葉が紡がれる前に機械語の処理をへてアウトプットされている、という気がする。その言葉なりからうけた印象(機械語)を、どうにか人間語にして伝える、という一連の表現。
 詩を書く場合は、内面に生じた機械語を人間語になんとか翻訳して伝える。批評の場合は、他人の内面を人間語に翻訳されたもの(つまり詩)を読むことで生じた印象(機械語)を、さらに人間語に翻訳してアウトプットする必要がある。後者の場合三回の翻訳を経ているため、当然最初に生じた作者の機械語(内的感覚)は、批評する側のアウトプットに至るまでに相当変質している。また、この四つの言語(作者の機械語、作者の人間語、批評者の機械語、批評家の人間語)は当然別物であるため、一意的な翻訳など成されるわけがない。それが当然だ。それが当然だからこそ、さまざまな解釈による批評が可能なわけで、そしてそれらのほとんどは、おれの受ける印象を説明してくれない。自分で翻訳していないから。

 いまおれの場合、自分の機械語すらまともに翻訳できず、どうにも不完全燃焼な詩になってしまう。その連続で情熱が失われつつあるのも確かだが、はっきり言って「現代詩をそんな読み方してないゆえに」以来進展がない。夢の蓄積は徐々に進んでいるので、それを形にしてみようか(夢はいやに抽象的なので、結構詩に使えそうなモチーフが転がっている)。

 コンピューターの世界では、機械語を人間語に翻訳するソフトなリシステムなりを、逆アセンブラという。おれの場合は、KETIPAの中に生じた夢のような機械語を、出来るだけ忠実に、いらん解釈や無駄な技巧を排除して、人間語に翻訳するこころみを繰り返す必要がありそうだ。逆KETIPAといったところか。それが出来るようになれば、もうちょいましな批評が出来るようになっていることだろう。あんま関係ないかな。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】逆KETIPA——極私的な詩のつくりかたとよみかた Copyright KETIPA 2010-01-09 23:13:38
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