「波の声をきいて」(10)
月乃助
部屋に戻るとHiromiは、リビングの三人掛けのカウチに座ってテレビを見ていたが、その横でPenneが大きな潤んだ瞳の顔を上げ、Sayoが部屋に入ってくると、娘と一緒に光沢のある灰色の顔を向けた。
長い白い何本ものひげが昆虫の触覚のように見える。
「Hiromi、あんた、アザラシがおしっこしたりしたらどうすんの?あなたが、ちゃんと掃除してくれるんでしょうね。犬や猫みたいにトイレのトレーニングなんかできてないんだから。あんたのペットじゃないし、海に帰す野生のアザラシなんだからね」
Sayoは、Hiromiが本当にペットのようにしているので野生の言葉に力をこめて言った。
そんな親子の会話に、アザラシは顔を向け注意深くアイスピックで刺したような穴だけの耳で聞いている。
「大丈夫、さっきバス・タブの中でしてたから。それよりも、魚はどうだったの?この子やっぱり一日二、三キロは食べると思う。お腹まだ空いているって言うし」
「多分、それくらいなら、大丈夫かも。バケツに一杯、雑魚をもらってきたし、サーモンの頭や内臓なんかもマーケットではかなりな量を捨ててるみたいだから、それも、もらってこられるしね」
そう言いながらSayoは、ドアのすぐ横に置いたバケツを指差した。サーモンの光る頭が黒目を見せて一番上にのっていた。
Penneは、もうその臭いが分かるのか、首を上げて鼻でその臭いの元を探しているようだった。陸では水の中ほどの視力はないのだろう。その様を見ながら、アシカのように背を伸ばすような姿は、アザラシにはできないのをSayoは思い出していた。まだ、サポーターをしたままのアザラシは、何か服をきせられた犬のようで、Sayoにはやりきれないのに、娘のHiromiの方は別段頓着することもないようだった。
左のヒレを体に密着するようにサポーターの下にいれているので、一人では動きにくいだろう。それでも、アパートの部屋を大きな芋虫のような蠕動運動で這い回るアザラシがあちこちのものを倒していくのを思うと、頭が痛くなりそうだった。
Sayoは、何度も動物の自然の中で生き抜く力強さを見てきたから、きっと、Penneにもそんなものがあたわっているのだと思う。
片足を失ったカモメは、完全なバランスで家の窓辺に来て、食べ物のおこぼれを期待していたし、シャチに襲われたアシカは、胸の食いちぎられた肉を垂らしながら死なずにいた。小川でみた産卵に上がってきた力尽きたようなサーモンは、カラスに目を啄ばまれながらも、まだメートの相手を求めていた。
そのどれもが、生きることなどこんなことだと、Sayoに言っているようだった。
アシカと違ってハーバー・シールはほとんど大きな鳴き声を上げなかった。Sayoは、今もそれが我慢強いためだからと信じている。冬になると北の海から海峡にやって来るアシカ達は、岩礁の上で一日中、うるさいほどにアオ、アオ、アオと鳴き声を上げた。その声が鳴り止まずに、Sayoは冬の風の中、磯まで行き、何度もどなりちらしたことがあった。
アパートのマネージャーのミセス・ロスの顔を思い浮かべ、少なくとも、鳴き声でアザラシが部屋にいることを知られる心配はなさそうだと安堵していた。
「早く治ってもらわないとね。あたしだって仕事があるんだからね」
「大丈夫、そんなにひどく痛まないって。体の方は、ほら、こいつ脂肪が厚いじゃない、だから、ちょっとくらいぶつかったりしてもダメージは大きくないみたいだし。昨日は多分、精神的なショックの方が大きかったと思うよ、いきなり網で巻き上げられたりしてさ」
そして、Hiromiは、これは発見したことと、
「そういえば、アザラシって水を飲まないみたい。あげてもみんな吐き出しちゃうから。きっと海水が喉から体の中に入らないようになっているのかもね」そんなことをSayoに言った。
それなら、どうやって水分を供給しているのよと思いながら、アザラシとの共同生活からも、得るものはあるのかもしれない。Sayoは、そう思うことにして、昼寝をさせるためにHiromiが今度はアザラシに子守唄を歌っている姿を思うのだった。
それは、Sayoが娘に歌った歌かもしれない。それをSayoは、母親から教わった。随分と昔のこと、それなのに、その歌を忘れることはないようだった。(つづく)