「波の声をきいて」(8)
月乃助
リビング・ルームのテーブルには、油まみれの四角いカード・ボードに、ピザが二かけらだけ残り、もう白いチーズを固くしいびつな三角を見せていた。
Hiromiはウォーフでの母親の話を聞くと、そんなことかと、もっと違ったことでも考えていたようで、それはきっと港の観光客用のアトラクションにある小さな水族館からアザラシを盗んできたと、そんなことだったのかもしれない。そこでは、おおきな蛸を見せたり、ダイバーが魚に餌付けをするショウをするところで、小さな水槽にたくさんのアザラシ達が飼われていた。
「もう少し元気になったら、調子をきいてみるよ。何か分かるかもね」
「そう、だったらお願いね。多分、食べるのはサーモンかなんかよね」
海峡に群れなすシャチ達の主食がサーモンだった。それなら、アザラシも同じようなものだろう。近海の魚は大概なんでも食べるだろうが、一番手に入れやすく安い魚を思いめぐらす。イワシ?。Sayoはアザラシがどれくらい食べるのかと、そんなことを思っていた。大きなアザラシなら、きっと一日に何キロと魚を食べるに違いない。
「それよりも、このアパートは、ペット禁止だから、見つかったら大変だよ」
「ペットって、これは動物愛護の活動みたいなもんでしょ、愛玩用とは違うんだから」
「ミセス・ロスにはそんな言い訳通じないでしょ」
Sayoは、いつも化粧に余念がない口うるさいマネージャーの年取った顔を思い出し、また、ペットじゃないからね、そう娘に言っていた。それなら、ほっといて見殺しにしても良かったというの。
「とにかく、いつまでもここに置いておけないでしょ。あたし、シャワーも浴びたいもの」
娘が今度は現実的な小言のようなことを言うので、
「元気になったら一緒に入ったら良いのよ。あっちは、どっちにしろ水は好きなんだから。すぐに良くなるよ。そしたら、海に返してあげられるものね。少しの我慢だって」
そう言いながら、Sayoも本当のところアザラシがどれくらいで元気になるのか見当も付かずにいた。それよりも、その間の魚代のことが心配になるし、万が一死なれたりしたら、そっちの方が面倒かもしれない。ボートにのせて海峡の真ん中辺りに投げ捨てたりするのだろうか、それはかなり大変そうに思えた。
怪我をした動物達を収容する病院のようなものがあったように思うが、それも確かでなかった。もしあっても本土の方だったら、どうやってそこまで連れて行こうか、Sayoは、煩雑すぎるので拾った猫を飼うような勢いで、アザラシを部屋に置くことにした。いつも、そんなふうに物事を決め、そして、どうにかなってきた。
「さっき痛み止めのカプセル、顆粒だけ取り出して、口にいれておいたから、また、寝るときにやってみる。少し楽になってるみたい。錠剤だとすぐに吐き出すからね」
怪我をした動物はいらだっていることもあるし、まして、アザラシの歯は魚を噛み切るほどの鋭い歯をしてるじゃない。奥歯で貝を噛み砕く様子はSayoも何度も見てきた。娘の指を食いちぎることなど簡単だろうに。
それでも、それが起こりそうもないとSayoは、Hiromiの顔を見ていた。この子もまた、海の子らしい。
部屋はどこか潮の香りと動物の臭いがあった。夕食の食器を洗いながら、それは昔よく嗅いだものなのに、今は、それを懐かしく思うほどの時が過ぎてしまったようだった。
アザラシを見に行くと、左の前ひれが動かせないように大きな灰色の、Hiromiがサッカーの時に使っている胸を保護するサポーターをしていた。
少し落ち着いたのか、バス・タブに腹ばいに寝そべった姿で目を閉じ眠っている。
Sayoは、歯ブラシを取るとバス・ルームの電気を消して、ドアを少し開けたままにしておいた。そこは、アザラシの魚の息でむっとするほどなのに、、Sayoにとってはなんでもなく、それは、Hiromiも同じようだった。
「そう、名まえね。Penneにしたの」
Hiromiが、名前がないと不便でしょ、そう言っている。
そんな名まえにしたのは寸胴のアザラシの姿が、パスタのそれに似ているからだろう。Sayoは名まえをもったアザラシが、今では本当のペットのように思え、新しい住人が二人の暮らしに加わったような不思議な思いでその名まえを聞いていた。
(つづく)