PCを捨てよ 町へ出よう(1)
花形新次
JR京浜東北線新子安駅前にある居酒屋『道草』の親父は、
僕がカウンターで一人、コップ酒をちびちびやっていると、決まってボクシングの話を
聞かせたがる。僕ら以降の世代では誰も知らないような昔のチャンピオンの話を。
そのほとんどを僕はすっかり忘れてしまったけれど(酒が入っているから)、それでも
いくつかは記憶に残っている。
たとえば、試合の当日になって行方をくらませた男(怖くなったのか?それとも借金取りから逃げるためなのか?)の代役としてリングに初めて立った黒人少年の話。しかも少年は、その行方をくらませた男の名前で闘ったという。才能溢れる少年は、その試合も、次の試合も、その次も圧倒的な強さで勝ち続け、そしてチャンピオンになった。他人の名のままで。少年の名はウォーカー・スミス。またの名をシュガー・レイ・ロビンソン。
何故、この話を覚えているかというと、僕に背中を向けて仕事をする親父が、話の最後
にポツリと漏らした言葉が印象的だったからだ。
「勝者はいつも他人だ。」
僕は一瞬ギョッとして親父の背中を見つめた。僕に対する皮肉かと思ったからだ。しかし振り返った親父は、やっぱりいつもの気の好い親父で、僕に「これサービスね。」と言って、オクラ納豆を差し出した。「精をつけなきゃ、若いんだから。」と笑いながら。
そして、「勝つことばかりが人生じゃないもんね。」と付け加えた。僕は苦笑いしなが
ら「そうだよね。」と言って、納豆を一粒口に運んだ。
「思い返してみると、親父の言う通り、今までの人生、確かに勝者はいつも他人だったような気がする。」声には出さなかったけれど、僕は心の中でそう呟いていた。
あなたも、新子安駅に来ることがあったら、この店に立ち寄ってみてはいかが。
きっと楽しい夜が過ごせますよ。旨い酒と肴と、親父のボクシングの話で。