「波の声をきいて」(3)
月乃助
Sayoはもうこんなことを三年もやっていた。
森を越えてやってきたここは、都会の雰囲気のある町で、少なくともダウンタウンには背の高いビルがあり、州立のバスが走り、スーパーマーケットで買い物ができるだけでもそうだった。
観光が売り物の港町は、街頭に花のバスケットが下がり夏にはそれが咲き誇る。隣国からやってくる何千人も乗れるクルーザーの寄港地にもなっており、Sayoが住んでいた町とは規模が雲泥の差だし、通りすがる人がSayoのことを少しも知らずにいるというのが、たまらなく嬉しかった。
ダウンタウンに歩いていける距離に部屋を借りたが、そこでは、水道料金がレントに含まれていて好きなだけ水も湯も使い放題だった。洗濯も海水を汲んでくる必要もなく、地下にコイン・ランドリーの部屋があった。
Sayoは、今でも熱い湯を張ったバス・タブに体をつけた時の感覚が忘れられない。
アパートにやって来たその最初の日の、最初にした事だった。それは、箱に詰められた食器や服を出すよりもなによりも初めにしたことで、Sayoが子供の頃、両親と一緒に住んでいた頃には、確かにそんな風呂に入っていたのを思い出した。
娘は母親を横目に、引越しの箱の中にうずまるように椅子に腰掛けて、窓から見られる建物のひしめく町の様子と遠くの森の丘を見ていた。
潮の香りのない部屋は、アパートのマネージャーがしたのかカーベット・シャンプーのライラックの香りに似せた臭いがしていた。それは、新たな町の暮らしの臭いに違いなかった。
バス・タブの湯の温かさは、夏の午後潮の満ちた浅瀬に裸で浸かっているようだったが、ここには晴天も波の岩を洗う音もなかった。
「Hiromi、バスタオル、お願い。どっかの袋にはいってるから、多分、緑のゴミ袋のどれか。分かる?」
Sayoが風呂場からバス・タオルを持ってくるように言っても、リビングの方からの返事はなかった。
「バスタオル持ってくんの忘れちゃったのよ」
湯を肌から滴らせながらSayoがバス・ルームから出てくると、リビングの茶色い絨毯の上でHiromiは、所在無げな子猫のように丸くなって眠っていた。
Sayoは裸のまま、窓からの光の横で、自分の娘が眠る姿を声を掛けずに見つめていた。
自分のやろうとしていることが、何かつまらないことのように少し思えた。
Sayoは、204のテーブルにチェックを持って行くと、笑顔をつくってありがとうございました、と言いながら、今度はできるだけ母親を見ないようにそれをテーブルの端に置いた。それは、アジアの奥ゆかしさを湛えた笑みと、Sayoは思っている。若さで押し切る年ではないので、他の方法を考えたら、そこに行き着いただけだった。少なくとも半分は、東アジアの行った事もないニホンという国の血が流れていた。
ジョディーとセーラの二人は、もう夜のテーブルのセットの準備をし始めていた。
デミタス・カップほどのキャンドルをトレーに並べ、ユーテンシルを紫のナフキンで巻いたものを作っている。それを見ながら、Sayoは、娘のHiromiは、今日何をすると言っていたか?それを思い出そうとしていた。
夏休み、サッカーの練習をすると言っていたような気がした、が。
それが不確かで、出かける時のHiromiを思い出してみた。
まっすぐの黒髪は、Sayoのそれなのに、目も口も父親の優しく弧を描くもので、この頃もっと父親の容貌に似てきているような娘の姿が現れて消えた。
(つづく)