「あざらしの島」(3/3)
月乃助
娘は娘で、やはりそんな母親の影響か教育のもと、元気に何事にもとらわれないそんなおおらかな子に育っていた。やたら頭が良く、勉強などしなくても成績もよく、クラスの担任の若い娘のような先生は、クラスをスキップするように言うのに、娘はただ同じクラスにとどまりたいというのは、クラスにサッカーの上手な好きな子がいるのだと、母親はサッカーを練習する娘の中に不純な理由か、恋の萌芽のようなものを発見していた。
波の音を聞きながら、わずかに平たい乾いた苔の上で、娘はリフティングの練習に時間を費やした。
ボールが海に落ちれば取りに行くのは、娘なのだから、最初はなんどもそんなことをやっていたのに、今では、それもなくなっているようだった。
女は、子供がボールをつま先でわずかに蹴り上げ、それをいつまでも続けるさまに、この子はもしかしたら、サッカーで財を成すかと思うのに、また、別な子を好きになればサッカーなどしていないようにも思える。女は、一つのことに集中したり、好きなものに執着したりすることがなかったが、それを女の生まれながらの性質とは思っておらず、娘も含めて人はだれもそんなものだと考えていた。
そんなことを思うとき、決まって女は女を置い出て行った男のことを思い出した。その男を愛したことだけは、未だに忘れられずにいた。それは、どうやら女の未練らしかった。
どこにでもいるような普通の顔の、普通な仕事の、普通なセックスをする男だった。
だから、女のことを分かることがなかったのだろう。男は、波の音も、海の声も、区別ができずに、まして、それに意味があるなど分かりようもない人だった。
それは、まだ、女が港の小さなヨットに住んでいた頃の話で、子供も生まれる前の話。
女は、もうその男がこの町にいないのを知っていた。
小さな港町は、隣国から海路で来る観光客用にレストランやカフェにホテルが数軒あったが、雑貨屋と食料品店は一つづつしかなく、店は通りの二ブロックを埋めるほどの数で、教会の近くにあるベーカリーは奥がポスト・オフィイスにもなっているような町だった。
男が去った後、女はひどく悲しかった。誰とも話をしなかったし、したくなかった。
ヨット・ハーバーに住んでいる住人達は心配し、女に医者に会うように勧めた。
女は、言われたとおりに精密検査というのを受け医者にあい、「何もかも忘れて、死んでしまいたい」と言った。すると老いぼれの医者は、女の聞いたこともない何かひどく複雑な長い病名を女に告げた。そして、妊娠していることを教えてくれた。仕事をする気もなかったが、病名のおかげで生活保護をもらった。それと、男の残していったヨットを売った。それが思ったより高額で売れたとき、女はいなくなった男のことを少し感謝した。
女は、もし、男が自分の子供がいることを知ったらどうするのかと思う。
きっと、律儀な人だから、その子をもらい受けに女の所にやってくるように思う。それがために、女は今も娘を手元においているのかもしれない、またいつか、その男と再会する理由を持っていたいがために。
女は男を愛していたと、そんな時には真剣に思い、あの頃は普通の女の顔をしていたのかもしれないと、自分の過去の姿を思ったりする。
ある日、夢想から覚めると、女の耳に海風の声がしてきた。
それは、「さあ、もう行くかい。時はすでに、今…」女は、その声を聞きながら、うつむき、次にくっと顔を上げると、海峡とは反対側の森の中にある町の景色に目をやっていた。
海峡からの潮風は、女の長い黒髪をひと時弄ぶように舞い上げた。(了)