無題
影山影司

 家に帰ってまで電気の光を浴びるのは嫌いだ。夜は夜らしく、暗くあるべきだと考えている。部屋の隅の卓上電灯のタッチパネルを一押し、書き物程度の光が、机の上から漏れ出しあたりに飛び散る。部屋の真ん中にある一抱えの熱帯魚用水槽には夜が来れば自動で明かりが灯る。
 手入れを怠った水槽は悲惨だ。中の水は常温より少し高め、指を差し入れるとぬるめの温度に温もるよう設定されていて、表面に微かな油とカスを浮かせている。まるで一週間分の荒いものを溜め込んだキッチンの流し台にそのまま水を溜め込んだようだ。
 水槽の硝子表面には、へたくそなグリーンのスプレーを吹いたような苔が生えている。ヒゲの様に水流に揺られて、ただでさえ濁って見えにくい視界を覆い隠す。
 もちろんそんな環境で生きている魚など、殆どいない。多くは皮膚の下からぶくぶくと浮き上がる水泡に全身を包まれて死んでしまった。初めはその屍骸をほぐして食っていた同種の魚たちも、不潔な環境に耐え切れず似たような病気にやられて死んでしまった。今、この水槽の中に生きているのは一種の魚だけだ。浅黒く、南米だかどこかが原産の、濁流でも生存できる種類。
 ほんの三ヶ月前まで、金持ちの別荘に置いても引け目を取らないほど美しかった世界は、すっかり崩壊してしまった。多種多様な魚は死に絶え、丁寧に刈り取られた水草は生い茂った。何故か。簡単だ。世話をせず、時折えさを一掴み放り込むだけにした。ぐるぐる巡るだけの水は一気に汚染され、穢れの濃度を増し氏の気配が濃厚になるにつれて、濁る。

 元々私は甲斐甲斐しく世話をする人間だった。部屋に入り浸る女は私のことを、「飼い主なのか奴隷なのか分らない」と評したほどだ。確かに、住み良い環境を与え、定時に餌を食わせ、病になれば薬を、繁殖の際には小型の水槽で別にして面倒を見ることもある。
 魚達はその生活に疑いもせず、保護を受けて世界を構築していた。私と、彼らの関係は、そういうものだった。

 私は神学者であった。有神論、無神論、どちらかといえば無神論の立場で研究を進めていた。学者相手にしか通用しないような探求のほかに、一般的な市民を対象とした聞き取り調査も行っていた。我が国の市民はその殆どが無神論者であり、そもそも神の存在について考えたことも無いような人間が大半を占める。
 聞き取った中には、面白いことを言う人間が居た。「神様がいたら、こんな悲惨な世界を救わない訳が無い。もし神様がこの世にいるとしても、そいつはきっと我々の宇宙のことなんて、とっくの昔に忘れてしまっているんだろうね」

 聞き取った内容を書類にまとめ、必要があれば掘り下げた調査をし、普段行っている研究と照らし合わせて思考を深める。折り悪く、丁度くだらない付き合いも重なり、帰宅する時間はどんどん遅くなり、酷いときには一週間も家に帰れない日が続いた。
 荒れていく水槽は目に入ったが、それに構う余裕は無くなり、荒れれば荒れるほど、手の出しようはなくなった。
 今日もこれからすぐに寝て、眠気の残った頭で仕事の続きをしなくてはならない。魚達にとって、自分はきっと神と同じ存在だっただろう。だが、今はどう考えているだろうか。案外、ちっぽけな頭で「神は死んだ」と考えているのかもしれない。
 窓の外を見上げると、青白い卓上電灯の明かりとよく似た光を放つ星星が散っている。人間と魚、そして神の関係は、きっとそう変わらないものなんだろう。


散文(批評随筆小説等) 無題 Copyright 影山影司 2009-10-13 20:39:15
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